人気ブログランキング | 話題のタグを見る

土屋文明(1890~1990)

土屋文明(1890~1990)_f0368298_20213838.jpg

土屋 文明(つちや ぶんめい)

歌人
1890年(明治23年)〜1990年(平成2年)

1890年(明治23年)、群馬県群馬郡上郊村(現在の高崎市)に生まれる。祖父は賭博で身を持ち崩し強盗団に身を投じて北海道の集治監で獄死したと伝えられており、家族は村人たちから冷たい目で見られ、幼い文明にとって故郷の村は耐えがたい環境であった。父は農家の傍ら生糸や繭の仲買で生計を立てていたが、村に居づらく、村を出入りして商売をしていた。3歳から伯母の嫁ぎ先で育ち、幼少期に伯母の夫から俳句を教わった。1904年(明治37年)、旧制高崎中学校(現在の群馬県立高崎高校)に入学。在学中から蛇床子の筆名で俳句や短歌を『ホトトギス』や『アカネ』に投稿。卒業後に恩師・村上成之の紹介により伊藤左千夫を頼って上京。短歌の指導を受け『アララギ』に参加。さらに左千夫の好意により、第一高等学校文科を経て東京帝国大学(現在の東京大学)に進学。東大在学中には芥川龍之介・久米正雄らと第三次『新思潮』の同人に加わり、井出説太郎の筆名で小説・戯曲を書いた。1916年(大正5年)、文学部哲学科(心理学専攻)を卒業。1917年(大正6年)、『アララギ』選者となる。1918年(大正7年)、長野県の諏訪高等女学校に教頭として赴任。1920年(大正9年)には同校の校長となる。1922年(大正11年)、松本高等女学校の校長に転任。1924年(大正13年)、木曽中学校への転任を拒否して上京。法政大学の予科教授となる。1925年(大正14年)、第一歌集『ふゆくさ』を出版。1926年(大正15年)、『信濃教育』の編集主任となる。1930年(昭和5年)、信州を去って上京する頃からの歌を収めた歌集『往還集』を発表。自然主義文学の影響によるともいわれる、露悪的と見えるほど友人や肉親を突き放した冷静な視点の歌い方は、この歌集以降に歌壇に一般的になり、歌人としての地位を確立する。同年、斎藤茂吉から『アララギ』の編集発行人を引き継ぎ、アララギ派の指導的存在となる。また、この頃から万葉集の研究に打ち込み始め、1932年(昭和7年)に『万葉集年表』を発刊した。1935年(昭和10年)、都市社会のめざましい変貌を破調も怖れずに即物的なリアリズムで描いた『山谷集』を発表。第二次世界大戦中は日本文学報国会短歌部会の幹事長を勤め、1942年(昭和17年)には太平洋戦争へと向かう日本社会の動きを描いた『六月風』・『少安集』を発表した。1944年(昭和19年)7月から約5か月中国大陸を視察。これを基にした歌集『韮菁集』を1945年(昭和20年)に出版した。終戦間近の同年5月、東京・青山の自宅が空襲により焼失。このため群馬県吾妻郡原町(現在の東吾妻町)川戸に疎開し、終戦をはさんで6年半同地で生活した。疎開先からもしばしば上京して『アララギ』の復刊につとめ、9月号にて復刊。 1946年(昭和21年)の『アララギ』1月号から文明選欄がスタートし、優れた指導力を発揮。文明門下として近藤芳美、高安国世、吉田漱、渡辺直己、吉田正俊、岡井隆らを輩出した。1949年(昭和24年)、『万葉集私注』の刊行を開始。1950年(昭和25年)、『読売新聞』の歌壇選者となる1952年(昭和27年)、明治大学文学部教授に就任。1953年(昭和28年)、『万葉集私注』で日本芸術院賞を受賞。同年、宮中歌会始の選者となる。1962年(昭和37年)、芸術院会員に選出。1968年(昭和43年)、『青南集』『続青南集』で読売文学賞を受賞。1984年(昭和59年)、文化功労者に選出。1985年(昭和60年)、『青南後集』で第8回現代短歌大賞を受賞。1986年(昭和61年)、文化勲章を受章。歌壇の最長老として活動し、晩年まで創作活動を続けていたが、1990年(平成2年)10月に東京都渋谷区千駄ヶ谷の代々木病院に入院。同年12月8日午後3時58ふん、肺炎のため死去。享年100。没後、従三位に叙された。


土屋文明(1890~1990)_f0368298_20213941.jpg

土屋文明(1890~1990)_f0368298_20213894.jpg

土屋文明(1890~1990)_f0368298_20214111.jpg

アララギ派の歌人として100歳まで生きた土屋文明。歌人としては、写実主義短歌の推進者として独自の歌境を開拓。斎藤茂吉から編集発行人を引き継いだ『アララギ』では、戦後復刊に奔走するとともに、指導者として近藤芳美、岡井隆といった後進を育成した。万葉研究の第一人者としても活躍し、永年の実地踏査を踏まえて万葉を文学作品として捉え、一般の人に向けてやさしく説いた。土屋文明の墓は、埼玉県比企郡の慈光寺墓地にある。墓には墓誌が刻まれ、墓域の右端には土屋の作品「亡き後を 言ふにあらねど 比企の郡 槻の丘には 待つ者が有る」の碑が建つ。戒名は「孤峰寂明信士」。

by oku-taka | 2024-09-02 20:23 | 文学者 | Comments(0)