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柴田睦陸(1913~1988)

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柴田 睦陸(しばた むつむ)

声楽家
1913年(大正2年)〜1988年(昭和63年)

1913年(大正2年)、岡山県児島郡興除村(現在の岡山市南区)に生まれる。歌手を志すも両親から猛反対され、宝物のベートーヴェンの彫刻一つを握りしめ家を飛び出す。秋吉宗鎮に師事し、草むしりなどの家事の手伝いをしながら住み込みで声楽の指導を受けた。1934年(昭和9年)、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学。ここでは、薗田誠一、ヘルマン・ヴーハープフェニッヒ、クラウス・プリングスハイムに師事した。在学中の1935年(昭和10年)、ポリドール・レコードから宗近明として歌手デビュー。『上海リル』、『セントルイス・ブルース』などを吹き込む。1938年(昭和13年)、東京音楽学校声楽科を卒業。同時に、ビクターレコードへと移籍。本名の柴田睦陸で、『国民進軍歌』、『ラ・クンパルシータ』、『出せ一億の底力』、『朝』、『朝だ元気で』、『大東亜決戦の歌』など、流行歌、国民歌謡、軍歌の多数なジャンルの曲を吹き込む。一方、クラシック音楽のテノール歌手としての活動も行なった。1942年(昭和17年)1月、応召されて浜松飛行隊に入隊。1946年(昭和21年)3月の復員後はビクターレコードの歌手に復帰するが、同年11月に長門美保歌劇研究所 プッチーニ『蝶々夫人』のピンカートンでオペラデビューを果たす。徐々にオペラへと傾倒していき、NHK交響楽団との共演をはじめ、藤原歌劇団のオペラに数多く参加し、戦後の日本オペラ界をリードする役割を担う。1949年(昭和24年)、東京芸術大学の助教授に就任。なり、のち教授に就任。音楽教育者として幾多の後進を指導・育成し、後に同校の教授となった。同年12月にはオペラ研究部(あるいは「東京芸術大学歌劇研究部」)の部長となる。1952年(昭和27年)、ソプラノの三宅春惠、アルトの川崎靜子、バリトンの中山悌一を合わせた4人を中心に、志を同じくする12名の声楽家と、事務局の河内正三とともに、17名で新たなオペラ団体の創設に向かう。「先人のオペラ活動を第1期に自らは第2期の中心として気概を新たに」という趣旨から「二期会」(現在の東京二期会)と命名し、1952年(昭和27年)2月15日に結成披露・基金募集の「ヴォーカル・コンサート」を行なった。同年2月25日から28日にかけて、日比谷公会堂でプッチーニ『ラ・ボエーム』をマンフレート・グルリット指揮の東京交響楽団演奏で初演。この際の歌詞は宗近昭名義の訳詞による日本語の口語訳で行われ、柴田は主役ロドルフォを歌っている。以後、生涯にわたり二期会の中心人物として活動。宗近昭としては訳詞を手掛け、オペラの日本語上演の定番となったものが多い。柴田睦陸としては、歌手としてオペラの舞台に立ちながら、演出、歌唱指導、指揮、制作、プロデューサー、総監督、総指揮等も数多く務めた。また、旺盛な評論活動を展開。とりわけ発声法について論じ、日本声楽発声楽会の発起人および会長を務めた。1977年(昭和52年)、紫綬褒章を受章。1980年(昭和55年)、東京芸術大学教授を退官し、活水女子短大教授を務めた。1985年(昭和60年)、勲三等旭日中綬章を受章。1988年(昭和63年)2月19日午後3時49分、肝不全のため東京都新宿区の東京いかだいがぬ病院で死去。享年74。没後、正四位に叙せられた。


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戦後日本のオペラ界をリードし続けた柴田睦陸。東京二期会の創立者のひとりとして、初期の公演では主役のテナーを多く担当。特に『カルメン』のドン・ホセ伍長役は当たり役となった。また、宗近昭の名で日本語訳も手がけ、今日オペラの定番となっている作品の多くは彼の訳によるものである。まさに、戦後の日本オペラ界の中心人物であったが、それ以前に流行歌手としても活躍し、国民歌謡『朝だ元気で』や戦時歌謡『出せ一億の底力』をヒットさせたことは特筆しておきたい。柴田睦陸の墓は、埼玉県川越市の川越聖地霊園にある。墓には「柴田家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「釋梵音」。

by oku-taka | 2024-08-11 23:45 | 音楽家 | Comments(0)