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上原敏(1908~1944)

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上原 敏(うえはら びん)

歌手
1908年(明治41年)〜1944年(昭和19年)

1908年(明治41年)、秋田県北秋田郡大館町(現在の秋田県大館市)に生まれる。本名は、松本 力治(まつもと りきじ)。旧制秋田県立大館中学校在学中からヴァイオリンに夢中になり、音楽の素養を身につけた。スポーツは野球を得意とし、専修大学商学部に入学後も東都大学野球連盟に選手として出場。ポジションは投手で、1933年(昭和8年)春と1934年(昭和9年)春の東京五大学リーグ戦優勝に貢献し、4年生では主将を務めた。大学卒業後の1936年(昭和11年)にわかもと製薬宣伝部へ入社し、普通のサラリーマンとして社会人になったが、野球は社会人野球チームに所属し続けた。ある日、試合でレコード会社のポリドール野球部と対戦。その際、上原の遠縁の親戚でポリドールの幹部だった浪曲作家の秩父重剛から作詞家の藤田まさとを紹介され、レコードの吹き込みを勧められる。当時のポリドールには東海林太郎・新橋喜代三というスター歌手を抱えていたが、新たなスターの発掘にかなり注力していた時期でもあった。1936年(昭和11年)、テスト盤として「須坂小唄」など4曲をレコーディング。さらに、浅草〆香、山中みゆきらと共演した『しゃんつく踊り』でデビューした。芸名は、訳詩集「海潮音」の作者・上田敏に、当時の映画俳優・上原謙を捩った「上原敏」とした。「第2の東海林太郎」の育成に躍起だったポリドールは、上原のデビューより前にタイヘイレコードから引き抜いた河崎一郎の宣伝に力を注いでいたが、河崎の人気が上昇しかけた矢先に河崎を巡って訴訟問題が起こり、「ポスト・東海林太郎」は自然に上原に注がれた。上原には義太夫好きだった父の影響を受けて邦楽の素養もあり、広沢虎造を意識した小節を利かせた歌い方は、正統派の東海林と違って大衆的なカラーが強かった。一方、この時点での上原は『遠い湯の町』『恋の絵日傘』などのヒット曲は存在するものの、東海林の模倣と評されるなど伸び悩んでいた。1937年(昭和12年)、東海林が当時の子役・高峰秀子を養女に迎えようとした際にトラブルが起き、藤田と意見が対立。一歩も引かない東海林に対して藤田は、東海林のために用意していた『妻恋道中』の吹き込みに上原を抜擢した。妻恋道中は発売されるや25万枚を超える大ヒットとなり、上原は流行歌手としての地位を確立した。その後、立て続けに松竹映画の主題歌である『流転』、結城道子がソロでレコーディングする予定だった『裏町人生』と連続して大ヒット。翌年の『鴛鴦道中』も、新人の青葉笙子とのデュエットで大ヒットとなった。上原の快進撃はまだ続き、『妻恋道中』をはじめとしたヤクザもの(股旅もの)や『波止場気質』のマドロスもの、『上海だより』『南京だより』などのいわゆる“たより”もの、『流沙の護り』『聲なき凱旋』などの戦時歌謡、それ以外にも『徳利の別れ』『俺は船乗り』など、東海林を追い越す勢いでヒット曲を量産した。異なるジャンルの流行歌を上手く歌い分け、幅広いファン層を獲得していく上原には銀幕への出演依頼も増え、東宝映画『ロッパ歌の都へ行く』『金語楼の大番頭』や、松竹映画『弥次喜多六十四州唄栗毛』『弥次喜多怪談道中』などにも特別出演している。また、同じポリドールに所属していた榎本健一の舞台にも出演し、秋田なまりの朴訥とした台詞まわしで人気を博した。1939年(昭和14年)には日本コロムビアとテイチクが多額の支度金を用意して引き抜こうとしたが、「こうして成功したのもポリドールのお陰です」と全く応じなかった。一方、1938年(昭和13年)3月から1942年(昭和17年)まで、上原は中国大陸を戦地慰問で通算7度訪問し、数多くの将兵の前で歌った。しかし、青葉笙子、山中みゆき、浅草染千代らと何度も戦地を慰問しては帰国直後からレコーディングするハードなスケジュールを消化していたため徐々に体調を崩すようになり、多数の薬を常用するようになっていった。そのため、1941年(昭和16年)にヒットした『仏印だより』では声が荒れ、デビュー当時の柔らかな歌声は失われている。さらに第二次世界大戦が開戦すると、世間は勇壮な軍歌や叙情的な歌曲が中心となり、上原が得意とした股旅歌謡は衰退。さらに上原の歌い方そのものも時局に合わなくなって人気も凋落していった。1942年(昭和17年)、東京・渋谷の劇場に出演してから大久保の自宅に帰ったところ、妻から召集令状が来ていることを告げられた。上原は顔色も変えずにそのまま支度を始め、ポリドール社長の鈴木幾三郎や山中みゆきらに上野駅で見送られ、地元・秋田で入営するため妻と帰郷した。積極的な慰問活動の実績や30代を迎えての召集には不可解な面も存在するが、これは上原敏と本名の松本力治を別人物と判断した秋田県のミスだった事が後に判明した。入隊後は、上原が流行歌手であることを知っていた上官から何度も「報道班員として内地に残るように」と勧められたが、自ら戦地行きを希望し、輜重兵としてニューギニア戦線に赴いた。現地でも気軽に慰問に応じ、最前線の将兵を励まし続けた。1944年(昭和19年)1月には妻に宛てた軍事郵便が届き、現地の食糧事情の苦しさを知らせている。さらに戦地ではマラリアに感染し、死線を彷徨った。日本軍の敗色が濃厚となってきた7月、ウエワク方面で連合国軍の上陸による激しい戦闘に巻き込まれ、消息を絶った。終戦後の1947年(昭和22年)、妻宛に「昭和19年7月29日、補充兵長・松本力治はニューギニア方面にて戦病死」との公報が届いた。ただし後日帰還した戦友が妻に語ったところによれば「戦病死ではなく空襲を受けての戦死だった」「亡くなった日は4月30日」との証言もあり、詳細な最期は不明である。享年36。1976年(昭和51年)、故郷である秋田県大館市の桂城公園に上原の顕彰碑が建立された。


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サラリーマンからポリドールの看板歌手へと華麗な転身を遂げた上原敏。冴える高音に浪花節を思わせる節回しが特徴的で、ヤクザもの、マドロスもの、戦時歌謡とその当時流行していたあらゆるジャンルの流行歌を歌いこなし、いずれもヒットさせた。また、丸眼鏡の見た目そのままに実直な人柄でも知られ、流行歌手になっても質素な生活を続けて借家暮らしを通し、日本コロムビアとテイチクから多額の支度金を用意されてもポリドールから移籍することはなかった。しかし、その実直さが仇となり、誤って召集されてもそれを拒否することなく出征に応じ、内地に残るよう勧められても自ら戦地行きを希望し、ついに戦死という最期を迎えてしまった。戦後も生きていたらば、昭和40年代中頃から巻き起こった懐メロブームによって往年の歌声を聴くことができたであろうと思うと、誠に残念でならない。没後、あらゆる歌手が彼の歌を歌い継ぎ、その人柄が偲ばれた上原敏の墓は、埼玉県秩父市の秩父聖地霊園にある。洋型の墓には「松本家」とあり、背面に墓誌が、右側に「上原敏君の霊に捧ぐ」と刻まれた、恐らく藤田まさと直筆による『流転』の歌碑が建てられている。戒名は「清揚院敬譽妙雅」。

by oku-taka | 2024-07-24 01:04 | 音楽家 | Comments(0)