人気ブログランキング | 話題のタグを見る

金子兜太(1919~2018)

金子兜太(1919~2018)_f0368298_00444653.jpg


金子 兜太(かねこ とうた)

俳人
1919年(大正8年)〜2018年(平成30年)

1919年(大正8年)、埼玉県比企郡小川町の母の実家で生まれる。父は開業医で、「伊昔紅(いせきこう)」の俳号を持つ俳人。水原秋桜子の「馬酔木」に所属し、1930年(昭和5年)に自身の俳誌「若鮎」を創刊した。2歳から4歳までその父の勤務地であった上海で、帰国して以降は秩父の地で育つ。旧制熊谷中学を卒業し、1937年(昭和12年)に旧制水戸高等学校へ入学。在学中に一級上の出澤三太に誘われ、同校教授宅の句会に参加してはじめて句作し、「白梅や老子無心の旅に出る」と詠んだ。以来、本格的に句作をはじめ、翌年に全国学生俳誌「成層圏」に参加し、竹下しづの女、加藤楸邨、中村草田男らの知遇を得る。1939年(昭和14年)、嶋田青峰の「土上」に投句するが、新興俳句弾圧事件によって「土上」が廃刊に追い込まれる。1940年(昭和15年)、旧制水戸高等学校を卒業。1941年(昭和16年)、東京帝国大学経済学部に入学すると、加藤楸邨主宰の「寒雷」に投句し、以来楸邨に師事する。1943年(昭和18年)、大学を繰り上げ卒業し、佐々木直の面接をうけて日本銀行へ入行。その後、海軍経理学校に短期現役士官として入校して、大日本帝国海軍主計中尉に任官。トラック島で200人の部下を率いる。餓死者が相次ぐなか、2度にわたり奇跡的に命拾いする。1946年(昭和21年)、捕虜として春島でアメリカ航空基地建設に従事し、11月に最終復員船で帰国する。1947年(昭和22年)2月に日本銀行へ復職。1949年(昭和24年)から翌年末にかけて、日本銀行労働組合の専従初代事務局長を務めた。1950年(昭和25年)末に福島支店、1953年(昭和28年)に神戸支店、1958年(昭和33年)に長崎支店へ転勤ののち、1960年(昭和35年)に東京本店へ戻る。一方、1947年(昭和22年)に「寒雷」へ復帰。沢木欣一の「風」創刊に参加して主唱する社会性俳句運動に共鳴する。1951年(昭和26年)、福島の藤村多加夫の持ち家に居住しながら、「波郷と楸邨」を『俳句研究』に執筆する。1954年(昭和29年)、同人誌「風」が、俳句と社会性のアンケートを特集し、ここから「社会性とはなにか」との論争が起きた。金子はここで「社会性とは態度の問題」「自分を社会的関連のなかで考え、解決しようとする『社会的な姿勢』が意識的にとられている態度」と主張。 沢木欣一は「社会性のある俳句とは、社会主義的イデオロギーを根底に持った生き方、態度、意識、感覚から生れる俳句を中心に広い範囲、過程の進歩的傾向にある俳句」とした。 佐藤鬼房は「批評精神のないリアリズムというものは考えられないのであり、社会主義リアリズムはその発展した表現」と指摘した。これらの意見に対して、山本健吉、平畑静塔、神田秀夫などから反論が起こり、沢木側にたった原子公平・金子兜太などとの激しい論争が起きた。  1955年(昭和30年)、日本ペンクラブ会員になる。1956年(昭和31年)、第5回現代俳句協会賞を受賞。1957年(昭和32年)、西東三鬼の勧めで「俳句の造型について」を『俳句』誌に発表。従来の俳句を自分と対象との直接結合による素朴な方法によるものとした上で、自分と対象との間に「創る自分」という意識を介在させ、暗喩的なイメージを獲得する「造型」の方法を提唱し、自身の創作方法を理論化する。1958年(昭和33年)、新俳句人連盟の中央委員に推薦され、栗林一石路とともに同誌雑詠欄の選者を1959年(昭和34年)10月号までの1年間担当する。1960年(昭和35年)頃より前衛俳句の旗手に数えられ、1961年(昭和36年)には雑誌「俳句」に「造型俳句六章」を連載。主客という従来の二項対立的な俳句創作の概念を覆す、戦後俳句の革新的理論書となったが、中村草田男の俳句観と対立し論争となった。 1962年(昭和37年)、隈治人、林田紀音夫、堀葦男らと同人誌「海程」を創刊。1974年(昭和49年)、日本銀行を定年退職。同年から5年にわたり上武大学で教授を務めた。55歳定年まで勤めた。1983年(昭和58年)、現代俳句協会の会長に就任。テレビの俳句番組に数多く出演し、俳句の普及に貢献した。1985年(昭和60年)、同人誌「海程」が結社誌となり、主宰に就任。1987年(昭和62年)から朝日俳壇選者を務める。1988年(昭和63年)、紫綬褒章を受章。1992年(平成4年)、日本中国文化交流協会の常任理事に就任。1996年(平成8年)、句集『両神』で第11回詩歌文学館賞を受賞。同年、勲四等旭日小綬章を受章。1997年(平成9年)、第48回日本放送協会放送文化賞を受賞。2000年(平成12年)、現代俳句協会の名誉会長に就任。2001年(平成13年)、第1回現代俳句大賞を受賞。2002年(平成14年)、句集『東国抄』で第36回蛇笏賞を受賞。2003年(平成15年)、日本芸術院賞を受賞。2005年(平成17年)、日本芸術院の会員に選出。となる。2008年(平成20年)、第4回正岡子規国際俳句賞大賞を受賞。同年、文化功労者に選出。2010年(平成22年)、第51回毎日芸術賞特別賞、また句集『日常』で第22回小野市詩歌文学賞を受賞。同年、第58回菊池寛賞を受賞。2015年(平成27年)、朝日賞を受賞。また、『中日新聞』『東京新聞』の「平和の俳句」選者となる。2017年(平成29年)5月、高齢などを理由に2018年(平成30年)9月で「海程」を終刊することを公表。しかし、同年1月から体調を崩し、2月6日に誤嚥性肺炎の疑いで熊谷市内の病院に入院。同月20日午後11時47分、急性呼吸促迫症候群のため死去。享年99。


金子兜太(1919~2018)_f0368298_00444656.jpg

金子兜太(1919~2018)_f0368298_00444881.jpg

金子兜太(1919~2018)_f0368298_00444891.jpg


戦後の現代俳句を牽引した金子兜太。季語や花鳥風月といった定型にとらわれず、自身の戦争体験や社会問題などを題材とした自由な俳句の世界を築き上げた。また、既成の俳句を批判し、伝統俳句派との論争に挑むなど、気骨ある「前衛俳句の旗手」として俳壇に大きな足跡を残した。晩年、作家の澤地久枝に依頼されて揮毫した「アベ政治を許さない」で話題となったが、この時点で96歳の現役俳人として俳句にテレビにと活躍していたのだから驚かされる。亡くなる直前には、時事通信社が「俳人の金子兜太さんが死去」と誤報を出すなど、何かと話題に事欠かなかった金子兜太の墓は、埼玉県秩父市の総持寺にある。2基ある墓のうち、兜太の眠る墓には「金子家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「海程院航句極居士」。

by oku-taka | 2024-07-24 00:47 | 文学者 | Comments(0)