人気ブログランキング | 話題のタグを見る

五社英雄(1929~1992)

五社英雄(1929~1992)_f0368298_00285147.jpg

五社 英雄(ごしゃ ひでお)

映画監督
1929年(昭和4年)〜1992年(平成4年)

1929年(昭和4年)、東京府北豊島郡滝野川町大字西ヶ原(現在の東京都北区西ヶ原)で生まれる。本名は、五社 英雄(ごしゃ えいゆう)。父親は吉原の近くで飲食店を営んでいたが、英雄が誕生した頃は古河財閥の使用人(用心棒のような仕事)をしており、母親は英雄を産んだ時42歳であった。貧しい家庭だったため、産まれたばかりの英雄は浅草にいる叔父(父の弟)夫婦の家に預けられた。叔父は一家を構える博徒で、英雄を養子にするつもりであったが、母は高齢出産した英雄への愛着が捨てきれずに取戻し、結局は実の両親と共に暮らすようになった。小・中学校時代には同級生と喧嘩しても、「お前はカタギの子じゃないから」という理由で、喧嘩の事情も聞かれず問答無用で英雄の方だけ体罰を受けた。1941年(昭和16年)、太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦し、不器用な英雄は軍事教練で三八式歩兵銃の手入れに手間取り、将校からよく怒鳴られ、つい不服そうな顔をすると、「これだからヤクザのセガレは!」と、右顎の歯が折れるほど、さらに激しい体罰を受けたこともあった。こうした生まれ育ちの差別や蔑みで味わった惨めさから、「弱味を見せたら、負けだ」、「決して相手に舐められてはならない」という思いが強くなった。そのため、大人になってからはハッタリやホラ話で周囲を煙に巻いて、実家が大層繁盛した芸妓置屋だったなどと生い立ちを偽ったりと、強気に脚色したりした。しかし、子供の当時は現実の惨めな環境は耐え難く、死にたいという思いから特攻隊の入隊を希望するようになり、中学を中退して1944年(昭和19年)に第13期として予科練に入った。だが予科練入隊まもなく日本脳炎の初期症状を患い、正式入隊が4か月遅れてしまったため実戦参加できず、本土決戦用の水上特攻隊の演習となった。同期の多くは1945年(昭和20年)に台湾や沖縄の戦闘で特攻隊として散っていったが、生き残った英雄は福知山市の飛行機工場で8月15日の敗戦を迎えた。予科練から復員後、一家を養うために食料調達に奔走し、その後は米軍基地の売店でアルバイトをした。基地の軍用品を銀座の闇市に横流しをして金を稼いだ後、明治大学商学部へ入学。卒業後、映画監督を目指し、各映画会社の就職試験を受けたが全て不合格となってしまった。当時は映画会社の社員でなければ監督にはなれなかったため、直接に大映の永田雅一の自宅にも日参して懇願したが叶わなかった。1年間の就職浪人を経て、少しでも映画界に近いところとしてマスコミ業界を目指し、民放ラジオ局のニッポン放送に就職。報道部に配属され、読売ジャイアンツの宮崎キャンプの取材記者などをした後、1959年(昭和34年)のフジテレビ開局に向けての人事異動により、前年の初頭にラジオのクイズ番組や音楽番組のディレクターに異動になった。しかし、どうしても映像業界に行きたい五社は、同期入社でフジテレビの編成部に移った村上七郎に、テレビドラマの演出をやりたい旨を話した。報道部入りを勧める村上の提案に一旦引き下がったが、信奉する黒澤明の演出研究の資料書類を持って再び訪れ、ドラマ演出への希望を滔々と語り懇願すると、村上はその熱意に押され常務に掛け合い、1958年(昭和33年)6月2日に念願かなってフジテレビ出向となり、1959年(昭和34年)1月に正式移籍して社員となった。スポンサー企業の意向に合わせてバラエティーなどを企画した後の同年6月に初めての演出テレビドラマシリーズ『刑事』を手がけた。『刑事』は高松英郎主演で生放送ドラマで、タイトルは「刑事」だが、偽札作りをする悪党がメインとなり、「破滅していくアウトロー」がテーマで、スピーディーな演出が社内で高評価を得た。自身の目指す生々しい迫力のあるアクションを体現できる俳優を探していた五社は、当時まだ有名俳優ではなかった丹波哲郎の野性味と堂々たる体躯に着目。五社は日本テレビで『丹下左膳』のセットで撮影中の丹波を訪れるといきなり初対面の口火で「自作のギャングドラマ『ろくでなし』に出演してほしい」と単刀直入に言った。江戸っ子の丹波と、チンピラ流コミュニケーションを駆使する五社は馬が合い、『ろくでなし』の成功後も、1960年(昭和35年)1月スタートのシリーズ物『トップ屋』でコンビを組むなど、付き合いが長く続くことになる。高視聴率のドラマを連発し、フジテレビの看板ディレクターとなった五社は、黒澤明のような時代劇の演出を目指した。また、同年10月の浅沼稲次郎暗殺事件発生により、警察から刃物やピストルなどの凶器を使う場面の自粛をテレビ局が求められたこともあり、時代劇なら非現実的なファンタジーとして暴力的描写も許容されうるという思いもあった。五社は、当時フジテレビに売り込みに来た無名の殺陣師・湯浅謙太郎が率いる「湯浅剣睦会」と組んだテレビ時代劇『宮本武蔵』の殺陣において、竹光ではなく真剣と同じ重さを持つ危険なジュラルミン製の模造刀を採用し、役者の迫真の演技を引き出した。五社の演出する立ち回りは、限りなくリアルに近い死闘であったが、テレビスタジオのセット内だけの撮影では今一つの限界もあった。五社は、入社2年目の編成部員の白川文造と共に企画を拡げていき、1963年(昭和38年)のテレビ時代劇『三匹の侍』で、丹波哲郎のほか、平幹二朗と長門勇をキャスティングした。当時、長門は浅草のストリップ小屋でコントをしながら下積み生活をしていた無名の役者であった。また、『三匹の侍』の殺陣では、刀と刀がぶつかる金属音や、刀を振った時の風の音、人が斬られる時の肉が裂ける音が付けられた。映画のようなカメラワークやロケが望めないテレビ時代劇において迫力のある立ち回りを演出するため工夫された「効果音」の演出は、五社が初めて時代劇で編み出したものであった。激しいアクションのテレビ時代劇『三匹の侍』の全26話は高視聴率を保ち続け、大成功を収めた。1964年(昭和39年)には映画版『三匹の侍』も製作され、丹波哲郎が創設した「さむらいプロダクション」が製作に乗り出し、松竹の京都撮影所で撮影された。当時、映画業界人はテレビの人間を「紙芝居屋」と見下げていたことから、松竹のスタッフはテレビ局のディレクターの五社に反感を持ち、様々な嫌がらせしたこともあったが、平然としてエネルギッシュな演出をみせる五社と次第に打ち解けていった。映画『三匹の侍』はテレビ局出身初の映画監督作品となったが、当時の映画ジャーナリズムから黙殺された。しかし、衰退の映画会社にとって五社の演出力は魅力だった。当時任侠路線に進んでいた東映は、その路線変更の会社の方針に反抗する中村錦之助のために、巨匠ではない五社を起用し『丹下左膳 飛燕居合斬り』など低予算の時代劇を製作。同じく東映製作の時代劇『牙狼之介』『牙狼之介 地獄斬り』では、五社は俳優座の夏八木勲を抜擢して西部劇風に演出した。1969年(昭和44年)、フジテレビが映画製作に乗り出すこととなり、多額の製作費を使った映画の監督を任されることとなった五社は、フジ製作第1作目『御用金』、第2作目『人斬り』のアクション時代劇を大成功させた。2作とも興行成績ベスト10にランクインし、五社は映画界のヒットメーカーに位置づけられるようになった。この大ヒットにより、同年11月にフジテレビの編成局映画部長に昇進。その後、思い通りのテレビドラマ作品を企画し、深作欣二監督・丸山明宏主演の『雪之丞変化』、田中徳三監督・天知茂主演の『無宿侍』、円谷プロダクションと提携し不条理ホラー『恐怖劇場アンバランス』などを製作するが、丹波哲郎発案の『ジキルとハイド』の内容が過激すぎ、試写を見た上層部が難色を示して、映画部長を解任された。チーフプロデューサーとして報道部へ異動となった五社は、『ひらけ!ポンキッキ』の企画に携わったり、ドキュメンタリーなどを製作したりする傍ら、東宝で映画『出所祝い』、東映で『暴力街』などを監督するが、あまりヒットせずに終わったため、映画会社からのオファーがなくなった。新たに劇画の原作などを書いていた五社だったが、元日本国粋会の森田政治が結成した「蒼龍会」の理事長に五社が就任したことが、フジテレビの鹿内信隆の逆鱗に触れた。1977年(昭和52年)11月には現場から外され、調査役として総務局の経営資料室に左遷。五社は会社にほとんど出社せず、俳優座に入り浸っていたが、そんな五社に佐藤正之が助け舟を出し、アクション時代劇『雲霞仁左衛門』の監督を任された。次作『闇の狩人』もエロと暴力と血しぶきを際立たせた演出で、原作の設定を完全に壊した大エンターテイメントに仕上げたために、原作者の池波正太郎が不快感を表明した。その一方、こうした五社の大胆な演出に角川春樹が注目し、山田風太郎原作の映画『魔界転生』の監督を依頼してきた。民放第3位という低視聴率に陥っていたフジテレビも、1980年代になって再び自社製作ドラマを復活させるべく、五社を現場復帰させた。しかし、1979年(昭和54年)末には妻が2億円の借金を残して家出し、1980年(昭和55年)5月30日には娘がアルバイト先に向かう途中で交通事故に遭い、頭蓋骨陥没骨折で下血腫脳挫傷となり危篤状態となった。五社は、もしも手術が失敗し娘が植物状態となるなら殺してくれと医者に頼み、その時は自身も後を追って死ぬ覚悟を決めていたが、以前から自殺願望を持っていた五社のことを気にしていた丹波哲郎は五社を説得。幸い娘の手術は成功し、失語症の後遺症は残ったものの最悪の事態は避けられた。しかしながら、同年の7月2日に拳銃所持の銃刀法違反容疑で逮捕。拳銃は他人から預かっていたものと見られ、妻の借金により売却された家を訪れた3人組の金融業者集金人によって通報された。3人は五社に執拗に利息を取り立て続け、業を煮やした五社がソファの背に隠しておいた拳銃を取り出したという。この一件は罰金刑だけで済んだが、五社は7月30日にフジテレビを依願退職した。この逮捕スキャンダルによって、オファーされていた『魔界転生』の監督の仕事もなくなった。その後、生活のために新宿ゴールデン街の知り合いの飲み屋に紹介された店で、「五社亭」という店名を付け飲み屋のマスターになる準備をしていたが、かつて『牙狼之介』などで組み、東映の社長となっていた岡田茂と、俳優座の佐藤正之が救いの手を差し伸べ、佐藤は東映京都撮影所の日下部五朗が仲代達矢主役で企画していた『鬼龍院花子の生涯』に、五社とパッケージなら仲代を貸すという条件をつけた。もともと五社と仕事がしたいと思っていた日下部や、東映社長の岡田茂は快く承諾。活動再開第1作『鬼龍院花子の生涯』は1982年(昭和57年)6月に公開され、大ヒットとなった。夏目雅子演じる松恵の発する「なめたらいかんぜよ!」という台詞は、台本にはなかったもので、現場で五社が即興で付け加えたものであった。『鬼龍院花子の生涯』の成功により、日本映画界の第一線に返り咲いた五社は、フジテレビからのオファーで『時代劇スペシャル』の監督を引き受け、復帰第2作目は『丹下左膳 剣風!百万両の壺』となった。続いてフジテレビは、かつてのヒット作『三匹の侍』を『時代劇スペシャル』枠で3時間スペシャル版として企画していたが、五社は東映の日下部五朗からのオファーの映画『陽暉楼』の方を選んだ。フジテレビの社運を賭けた企画を断わってしまった五社は、もう古巣の組織の中で安定収入が得られる道には戻れないと考え、『陽暉楼』の撮影前に京都で、二代目・彫芳の手により全身に羅生門の刺青を入れた。この『陽暉楼』で、日本アカデミー賞最優秀監督賞を受賞。当初、『陽暉楼』の主役は『鬼龍院花子の生涯』に引き続き仲代達矢で行く予定であったが、仲代が黒澤明の『乱』に起用されたためダメになり、緒形拳に決定。五社は緒形を気に入り、『櫂』でも緒形が採用され、『鬼龍院花子』『陽暉楼』『櫂』は、原作者の宮尾登美子とのコンビ作品で「高知三部作」と呼ばれた。1985年(昭和60年)、五社プロダクションを設立。同年には緒形が持ち込んだ企画で『薄化粧』も製作された。1986年(昭和61年)6月、前年に再上映された『人斬り』の宣伝で勝新太郎と週刊誌対談中、田中新兵衛役を演じた三島由紀夫について語った件で右翼団体の怒りを買ったためか、深夜に3人に待ち伏せされて顔を切られ大怪我を負う。五社は彼らがむしろマスコミ沙汰になることを期待していると思い、あえて警察には届けなかった。同年11月には『極道の妻たち』をヒットさせ、1987年(昭和62年)には名取裕子をはじめ、かたせ梨乃、西川峰子、藤真利子ら、当時の有名女優の大胆なヌードシーンが大きな話題を呼んだ『吉原炎上』もヒットさせた。しかし、1988年(昭和63年)公開の『肉体の門』が興行的に失敗。マンネリを打破するために二・二六事件を題材にした『226』の監督を担当するが、撮影終了後の1989年(平成元年)3月に食道がんを告知された。同年4月には京都大学医学部附属病院に入院。入院を仕事仲間や娘に隠すために、オーストラリアにいる兄の所に行ったふりをして密かに手術を受け、7月に退院。退院後は11月にヨーロッパのツアー旅行に行くなど養生した後、1990年(平成2年)6月から『陽炎』の撮影に入った。体調が思わしくない中、1991年(平成3年)11月からは古巣のフジテレビの協力を得て『女殺油地獄』の撮影にかかるが、現場で体調が悪化。入院したために撮影が一時中断し、病院から現場に通うことになった。青白く痩せ衰えてきた五社は撮影が終了するとすぐ入院生活に入り、完成披露試写や1992年(平成4年)5月の公開日には出席できなかった。病室でもかつてのヒット時代劇ドラマの『三匹の侍』のリメイクを企画し、キャスティングも渡辺謙、本木雅弘、竹中直人に決まろうとしていた。しかし、同年8月30日午後12時36分、食道癌及び併発した急性腎不全のため京都府西京区の病院にて死去。享年63。


五社英雄(1929~1992)_f0368298_00285145.jpg

五社英雄(1929~1992)_f0368298_00285373.jpg

五社英雄(1929~1992)_f0368298_00285223.jpg

斬新な演出でテレビ時代劇に革命をもたらし、女優たちの濡れ場やバイオレンス的描写によって1980年代の映画界を盛り上げた五社英雄。時代劇においては、今や当たり前となった「刀と刀がぶつかり合う音」「刀を振った際の風の音」などを生み出し、草創期のテレビドラマ界に大きな足跡を残した。映画では、人間の持つ情念を壮絶なアクションと大胆なエロティシズムで描き、観客の度肝を抜いた。その世界観に魅せられた人は今なお多く、お笑い芸人の友近やタレントのマツコ・デラックスが、五社作品の魅力を度々テレビで語っている。しかし当の本人はというと、銃刀法違反による逮捕でそれまでの栄光を一瞬にして失い、古巣の仕事を断った際は背中に刺青を入れるなど、常人には理解できないアウトロー気質。それが故に浮き沈みの激しい生涯であったが、ピンチに陥ると必ず救いの手を差し伸べてくれる俳優やスタッフがいたことは、五社の人徳のなせる業といえよう。芸術性ではなく娯楽性を追い求めた映画人・五社英雄の墓は、埼玉県川越市の東陽寺にある。娘が交通事故で重傷を負い、その手術が上手くいかなかった場合は自身も後を追うべく建立したという墓には「五社家之墓」とあり、右側面に墓誌、左側面に座右の銘であった「花の嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生さ」が刻まれている。戒名は「大監院英岳悟道居士」。

by oku-taka | 2024-07-24 00:30 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)