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春日照代(1935~1987)

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春日 照代(かすが てるよ)

漫才師
1935年(昭和10年)〜1987年(昭和62年)

1935年(昭和10年)、大阪府大阪市に生まれる。本名は、近馬 せつ子。旧姓は、松尾。両親が上方漫才師だったことから、幼い頃より芸を仕込まれ、1945年(昭和20年)に姉とコンビを組み、春日淳子・照代でデビュー。1961年(昭和36年)、姉の結婚によりコンビを解消。1963年(昭和38年)、三河島事故で相方を亡くしていた漫才師の三球と結婚。芸能界を引退して家庭に入ったが、1965年(昭和40年)から夫婦漫才コンビとして再出発。売れる前は三球がウクレレ(実際に三球はウクレレは弾けず、弾いていなかった事が多い)を、照代がギターを持ち、テーマソングの「線路は続くよどこまでも」を歌ってから音曲漫才を展開していたが、次第にボケを活かしたしゃべくりに徹するようになり、1970年代中頃には『地下鉄漫才』が大ブレイクして全国区となった。『地下鉄漫才』は当時の大人だけではなく、鉄道に興味を持つ子供たちにも広く受け入れられ、テレビで観た子供たちが当時の営団地下鉄(現在の東京メトロ)の広報に「あの話は本当なんですか?」という問い合わせが夏休みなどに殺到し、営団は「実際には違います」と異例のPRを行う程だった。その後、地下鉄に続き新幹線ネタや山手線ネタなどの鉄道ネタ、タクシーやエスカレーターといった乗り物全般に関するネタをシリーズ化して人気を維持。1975年(昭和50年)には第3回放送演芸大賞ホープ賞、1976年(昭和51年)に第4回放送演芸大賞漫才部門を受賞し、ついに1978年(昭和53年)には第6回放送演芸大賞の大賞に輝いた。しかし、1987年(昭和62年)3月、テレビ番組『新伍のお待ちどおさま』(TBS系)に出演中、くも膜下出血を発症。舞台袖で急変し、近くの東京都新宿区の東京女子医大病院に搬送されたが、すでに手遅れで手術できず、意識の戻らぬまま4月1日午前9時55ふんに死去。享年51。


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「地下鉄の電車はどっから入れたんでしょうかねえ?それ考えると寝らんなくなっちゃうの」のフレーズで知られる『地下鉄漫才』で一世を風靡した春日三球・照代。とぼけた風貌でナンセンスをかます三球と、それにガンガンとツッコミを入れる照代の芸風は大ウケし、落語家の立川談志をして「漫才でトリがとれる」と言わしめた。また、三球のボケにツッコミを入れるだけでなく、『地下鉄漫才』では「アレ(電車)は階段から入れたんですよ。常識で考えないと」と言って、それに三球が「よく改札が通れましたねえ」とさらにボケるという、ボケの畳み掛けをも漫才に取り入れていた。これはひとえに、漫才師の娘として生まれたが故に幼くしてその素養を叩き込まれ、姉と漫才のコンビを組んで活動していた照代だからこそできた技だと思う。『地下鉄漫才』以降、「山手線は電車いっぱいあるんだから、この際全部繋げちゃったら」の『山手線漫才』、「お金を入れないでも切符が出てきたらもっと便利なのに、お金を入れるというのが実に不便ね」の『自動券売機漫才』など、乗り物を題材した漫才で人気を不動のものにしたが、その絶頂期に照代が急死。テレビ番組の出演中にくも膜下出血に倒れ、そのまま故人となったことは、世間に大きな衝撃を与えた。その美貌から、演芸界の同業者からも人気が高かったという春日照代の墓は、埼玉県熊谷市の保泉寺むさしの浄苑にある。墓には「春日三球 照代之墓」とあり、背面に墓誌が刻む。2023年(令和5年)に春日三球も亡くなったが、同年12月訪問時には未だ納骨はされていなかった。照代の戒名は「春日院照譽節操大姉」。

by oku-taka | 2024-07-24 00:23 | 演芸人 | Comments(0)