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本田美奈子.(1967~2005)

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本田 美奈子.(ほんだ みなこ)

歌手
1967年(昭和42年)〜2005年(平成17年)

1967年(昭和42年)、東京都板橋区上赤塚町(現在の成増)の成増産院にて生まれる。本名は、工藤 美奈子(くどう みなこ)。家族は東京都葛飾区柴又に在住していたが、美奈子の幼いうちに埼玉県朝霞市へ移住。美奈子も朝霞白百合幼稚園に入園した。歌手になることを夢見ていた母親の影響で、幼い頃からいつも歌を歌っていた。朝霞市立朝霞第六小学校の卒業文集にも「女優か歌手になれたらイイ」と書いていた。朝霞市立朝霞第一中学校3年生の時に『スター誕生!』のオーディションを受け、14歳で出場したテレビ予選では柏原芳恵の『ハロー・グッバイ』を歌い、合格して決戦大会へ進出した。15歳を迎えて出場した決戦大会では松田聖子の『ブルーエンジェル』を歌った。しかし、プロダクションは1社も獲得意思を示さず落選となった。1983年(昭和58年)4月、東京都北区の東京成徳短期大学附属高等学校に入学。同年7月に初めて原宿を訪れた際、少女隊のメンバーを探していたボンド企画のスタッフにスカウトされ、芸能界に入った。前述の『スター誕生!』の決戦大会にはボンド企画のスタッフも参加していたが、その時は指名に至っていなかった。社長の高杉敬二とはボンド企画倒産後も二人三脚で歩み続けることとなった。中原めいこのヒット曲『君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。』をデモ音源で聞き、才能がある歌いっぷりから、この子はソロで売り出そうと決めたが、本人は演歌歌手志望で、事務所のオーディションのために準備してきた楽曲は演歌ばかりだった。所属するボンド企画は演歌歌手を育てた経験がなかったため、アイドルとしてデビューすることになったものの、本人はアイドルと呼ばれるのを嫌っていた。高校2年生の1984年(昭和59年)9月に第8回長崎歌謡祭に本名で出場し、『夢少女』(作詞:深田尚美、作曲:安格斯)という楽曲を歌ってグランプリを受賞。このことがレコードデビューのきっかけとなった。1985年(昭和60年)4月20日、東芝EMIから『殺意のバカンス』でアイドル歌手としてデビュー。本人の強い希望でアイドル色の強い『好きと言いなさい』から、アイドルとしては珍しい曲調である大人びた歌謡曲の『殺意のバカンス』に変更された。このように、事務所としては本人の意向を考慮し、個性を活かす方針が取られた。同期に、森川美穂・中山美穂・南野陽子・森口博子・斉藤由貴・大西結花・橋本美加子・芳本美代子・井森美幸・浅香唯、石野陽子・松本典子・森下恵理・おニャン子クラブなど、後にトップアイドルになる華々しい顔ぶれと並んでのデビューだった。キャッチフレーズは「美奈子、あなたと初めて♥」と「好きといいなさい!」の2パターン。その後、4枚目のシングル『Temptation(誘惑)』をヒットさせたほか、12月7日には新人歌手としては松本伊代・岩井小百合に続いて日本武道館コンサートを成功させた。また、同年の数多くの新人賞を受賞した。1986年(昭和61年)2月5日、『1986年のマリリン』をリリース。デビュー曲の『Temptation(誘惑)』が各種ランキングの10位以内に届かなかったのが悔しく、さらに強く個性を出そうとして、へそを露出させた衣装や激しく腰を振る振り付けなど、当時のアイドル歌手としては異例の演出と相俟って大ヒットとなった。また、事務所社長の高杉に薦められてマリリン・モンローやマドンナなど外国のスターの映像をくり返し見て演出の参考にするなど、『1986年のマリリン』における衣装や振り付けにもその影響が発揮された。7月23日発売の『HELP』は公共広告機構(現在のACジャパン)のいじめ防止キャンペーン「しらんぷりもいじめ」のテレビコマーシャルで使用された。また、この年にはゲイリー・ムーアから楽曲提供を受け、彼のギター・ワークをフィーチャーした『the Cross -愛の十字架-』をガイ・フレッチャー(ロキシー・ミュージックの元メンバー)のプロデュースにより制作した。この時にフランクフルトでのクイーンのコンサートに招かれ、メンバーとの交流を深めた。その後、再びロンドンを訪れて、クイーンのギタリストブライアン・メイのプロデュースによりシングル『CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS』を制作した。本田は武道館でのコンサートでフレディ・マーキュリーの『ボーン・トゥ・ラヴ・ユー』をカバーしており、またレーベルが同じEMIだったこともあって、クイーンの担当だった宇都宮カズを介してこのコンサートのライブ盤とデビューアルバムをロンドンEMIを通じてメイに送ったところ、彼の方から申し出がありコラボレーションが実現した。『CRAZY NIGHTS/GOLDEN DAYS』は翌1987年(昭和62年)に発売され、英語版もイギリスをはじめヨーロッパ20箇国でリリースされた。さらに、ラトーヤ・ジャクソンの来日公演のプロモートをボンド企画が手がけた縁で彼女とのジョイントコンサートを行い、ジャクソン・ファミリーとも親しくなった。ロサンゼルスのマイケル・ジャクソンの自宅にも招待され、彼らのスタッフのプロデュースにより全曲英語詞のアルバム『OVERSEA』を制作した。このアルバムはアメリカでも発売された。このように、デビューから数年後には海外ミュージシャンとのコラボレートは本田の歌手活動の際立った特徴ともなっていた。一方、ドラマ『パパはニュースキャスター』には本人役で出演し、主題歌に採用された『Oneway Generation』(2月4日発売)はドラマ自体の好評にも支えられ人気を博した。同年、映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』も歌手の役ということで引き受け、劇中事故で亡くなったレーサーの兄に捧げて『孤独なハリケーン』(9月9日発売)を歌った。その後、女性だけのメンバーでロックバンドを組むことを思い立ち、東京と大阪でオーディションを行い 、1988年(昭和63年)1月にロックバンド“MINAKO with WILD CATS”を結成。シングル『あなたと、熱帯』、アルバム『WILD CATS』などを発表した。同年9月11日、SHOW-YAが企画した女性ロッカーのみによるジョイントライブ『NAONのYAON』に出演したが、1989年(平成元年)秋に解散。ロックバンドとしての活動は少なくとも商業的には成功したとは言えず、ソロに戻った後も人気は回復しなかった。それでも歌へのこだわりの強い本田はバラエティ番組への出演を断り続け、ドラマや映画の仕事も最小限に絞っていた。また、新たな方向性として演歌歌手への転向が真剣に模索されており、この時期に出演したテレビ番組では着物を着て演歌を歌ったほか、演歌歌手として活動する方針であることがマスコミでも報じられており、この計画はある程度具体化していた。しかし、東宝のプロデューサーであった酒井喜一郎から『ミス・サイゴン』のオーディションの話を聞かされ、初めは関心を示さなかったが、全編歌で構成されたミュージカルであることを知ると目の色を変えて意欲を示すようになる。1990年(平成2年)秋に始まったオーディションの選考は6ヵ月間7次にわたり、約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれた。その後は全ての予定をキャンセルして公演に備えた。1992年(平成4年)5月5日、『ミス・サイゴン』日本初演。アイドル出身の彼女の力量を危ぶむ声もあったが、一年半のロングランをこなした。その一方、7月4日の本番中に舞台装置の滑車に右足を轢かれるという事故が起き、足の指4本を骨折。そのまま一幕最後の「命をあげよう」までを歌い切ったが、楽屋へ運び込まれてから靴を脱がせてみると中が血の海の状態だった。岸田敏志ら共演者にすぐに病院へ行くよう指示されたが本人は最後まで演じ切ると主張して譲らず、「(ダブルキャストの)入絵加奈子と連絡がついて今こちらへ向かっている」と言い聞かされて初めて声を上げて泣き出した。病院で診察を受けると足の指4本を骨折しており、19針を縫う重傷だった。全治3か月と診断されたがリハビリに励み、誕生日の7月31日にケガから1か月足らずで復帰を果たしたが、完治はしておらず特製ギプスを装着しての復帰だった。この作品で、その歌唱力と演技力が高く評価され、1992年度第30回ゴールデン・アロー賞演劇新人賞を受賞。1994年(平成6年)、『屋根の上のバイオリン弾き』にホーデル役で出演。9月24日にアルバム『JUNCTION』を、翌1995年(平成7年)6月25日にはアルバム『晴れ ときどき くもり』をリリースし、レコーディング・アーティストとしても復活を果たした。1996年(平成8年)、『王様と私』にタプチム役で出演。1997年(平成9年)、『レ・ミゼラブル』にエポニーヌ役で出演。以後も繰り返しこの役で出演した。1998年(平成10年)、エイズチャリティーコンサートで『ある晴れた日に』(プッチーニのオペラ『蝶々夫人』より)を歌い、2000年(平成12年)3月20日サリン事件チャリティーコンサートではラフマニノフの『ヴォカリーズ』を歌った。同年6月19日シドニーオリンピックを記念して開かれたシドニーのオペラハウスでの日豪親善コンサートに服部克久の推薦により出演した際には『タイム・トゥ・セイ・グッバイ』や『ある晴れた日に』を歌うなど、この頃から次第にクラシックへの志向を強めていた。2002年(平成14年)、『ひめゆり』にキミ役で出演。日本で制作されたミュージカルへの初の出演となった。2003年(平成15年)5月21日、初のクラシックアルバム『AVE MARIA』をリリース。ソプラノ的な唱法でクラシックの曲に日本語詞をつけて歌うというユニークなスタイルで新境地を切り開いた。同年、東宝によりシェイクスピアの戯曲にもとづくミュージカル『十二夜』が制作され、本田はネコ役を初演した。原作にないこの役はセリフに苦手意識のある本田のために作られたものだった。2004年(平成16年)、地球ゴージャス制作のミュージカル『クラウディア』でヒロインのクラウディア役を初演。同年8月29日、「N響ほっとコンサート」でNHK交響楽団と共演し『新世界』と『シシリエンヌ』を歌った。11月、「字画を1つ増やせば、輝ける未来に」と言われて本田 美奈子から画数が31画となるよう名前の後に「.」をつけ改名。11月25日、アルバム『時』をリリース。2004年(平成16年)末頃から風邪に似た症状や微熱が続いた。12月1日、武道館での「Act Against AIDS」に出演した際は、38度を超える発熱をおして『ジュピター』と『1986年のマリリン』を歌った。この頃からすでに病気の兆候が表れていた。暮れには結果的に生前最後のTV出演歌唱となったテレビ朝日系放送の『題名のない音楽会21』の収録に臨んだ。 2005年(平成17年)1月12日、急性骨髄性白血病と診断を受けて緊急入院し、翌日にはその事実が公表された。 白血病による入院中もストレッチや発声練習を行うなど、復帰への意欲を強く持ち続けていた。その後、2度にわたる化学療法を受けるが、寛解は得られなかった。急性骨髄性白血病の中でも極めてまれな予後不良の治療抵抗性の白血病であったという。治療として骨髄移植が考慮されたものの、骨髄バンクでドナーが見つかるまでの猶予すらない病状であったことから、同年5月、臍帯血移植を受けた。7月末には一時退院。このとき、世話になった医師や看護師のためにナースステーションで「アメイジング・グレイス」を歌った。この歌唱に涙ぐんで聴き入る看護師の姿をとらえた写真は『天使になった歌姫・本田美奈子.』や『本田美奈子. 最期のボイスレター』で紹介された。しかし、病気の再発が認められ、9月8日に再入院し、輸入新薬による抗癌剤治療を受けた。翌月には再度一時退院、その間には白血病患者支援のためのNPO法人「Live for Life」が設立されたが、同月末には再入院となった。その後、肺への合併症から容態が急変し、11月6日午前4時38分、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にて死去。享年38。


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歌手やミュージカル俳優として活躍するも、若くして病に倒れた本田美奈子。1980年代後半を彩ったアイドルの一人であるが、当時の本人はアイドルと呼ばれることに抵抗を感じ、「アイドルではなく、アーティストと呼ばれたい」と発言して「生意気」と叩かれることもあった。愛らしい童顔フェイス、そして明るいキャラと声ゆえにどうしてもアイドルと見られがちであったが、それに相反した力強い歌声と挑発的な衣装で世間からの評価に反発。果ては女性だけのロックバンド結成にまで至ったが、これが引き金となって人気は落ちてしまった。しかし、そこからのミュージカル挑戦、そして成功をおさめ、ミュージカル女優としての地位を築くという華麗な復活と転身は実に見事だった。クラシックを日本語で歌うことに挑戦するなど、かねてより願っていた「アーティスト」としての評価が揺るぎないものになりかけていた矢先、急性骨髄性白血病に侵されてしまったのは大変残念であった。最後まで希望を失わず懸命に生き、没後その歌声は「天使」と称された本田美奈子の墓は、埼玉県朝霞市の広称寺にある。墓には「南無阿彌陀佛」と、直筆による音符及び「ありがとう」とあり、左側面に墓誌が刻む。戒名は当初「釋優聲」であったが、2011年(平成23年)に広称寺住職の厚意によって院号が追贈され、現在は「澄光院釋優聲」である。

by oku-taka | 2024-06-10 14:36 | 音楽家 | Comments(0)