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古尾谷雅人(1957~2003)

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古尾谷 雅人(ふるおや まさと)

俳優
1957年(昭和32年)〜2003年(平成15年)

1957年(昭和32年)、神奈川県川崎市中原区に生まれる。本名は、古尾谷 康雅(ふるおや やすまさ)。幼少時に両親が離婚。生母との生別、その後に父が迎えた継母との不和に苦悩した少年時代を送る。都内の高校卒業後、靴メーカーに就職したが、20歳で劇団ひまわりに入団。本名の古尾谷康雅名義で演劇活動を開始する。1977年(昭和52年)、日活ロマンポルノ『女教師』(監督は田中登)で主役の女教師をレイプする不良中学生役で俳優デビュー。以降、社会派ミステリーや耽美的な作風で初期のロマンポルノ人気を支えた田中登監督作品に多く出演し、屈折した青年像を演じた。この頃、にっかつ所属だった鹿沼えりと映画で共演し、後に結婚している。1979年(昭和54年)、フジテレビのドラマ『二人だけの儀式』で一般作に進出。1980年(昭和55年)には映画『ヒポクラテスたち』(監督・大森一樹)で演技力の高さが評判となり、本格的に一般作へ進出する。1983年(昭和58年)、日本テレビドラマ『若草学園物語』で主役の教師役をつとめ、その主題歌「見上げるだけの人間のようで」でバップから歌手デビューも果たすなど、一躍脚光を浴びた。同年、映画『丑三つの村』で主人公・犬丸継男を演じ、熱を入れて役づくりに励んだ。また、松田優作を敬愛、尊敬しており、松田自身からも目を掛けられていた。その後も、『北の国から'87初恋』でわずか1シーンだけの出演ながら、ぶっきらぼうながら心優しいトラック運転手役を演じたり、『金田一少年の事件簿』の剣持勇警部役、『六番目の小夜子』では山田孝之演じる秋の父親役として出演したりするなど、日常性に立脚した役柄でも実績を築き、次第に名脇役と評価され始めていた。一方、ほとんどバラエティに出ないことで知られ、ドラマや映画での撮影時には常に自分に厳しく取り組んでいた。1990年代以降は仕事を選ぶようになり、あくまで硬派な役柄やシリアスな役柄などにこだわり、軽薄な作品に出ようとせず、当時のトレンディドラマブームにも乗り損ねた。また、敬愛する松田の死によって俳優としての将来像も見失っていたという。制作サイドも古尾谷の姿勢と徐々に釣り上がる報酬単価から起用を敬遠するようになった。古尾谷のもとには大河ドラマのオファーも度々舞い込んだが、幼い頃に腸重積症を患った影響で腸が短くなり、トイレ休憩なしの長時間の撮影に耐えられない体だったため、辞退せざるを得なかった。こうしたことが重なり、俳優としての活動範囲が狭くなったことを古尾谷は終生苦しみ続けた。やがて一日中家にいることも多くなり、昼間から酒浸りの生活になった。収入が激減したことで、住民税や1億5000万円で購入した自宅マンションのローンなどの支払いが滞るようになり、妻の鹿沼も「元・女優」というプライドを捨てて近所のスナックでアルバイトをしながら金策に奔走し、返済を進めたが、結果的に借金は3億円にまで膨らんだ。その後、『金田一少年の事件簿』の剣持警部が当たり役となり、鹿沼や関係者も「これで持ち直した」と期待したが、精神面の不調や過度の飲酒により台詞覚えが悪くなった他、撮影現場で故意に備品を破壊するなどのトラブルを起こし、心身の状態は悪化の一途を辿った。そうした状況下で実父の遺産相続を巡って継母との係争問題が表面化し、継母との民事裁判を抱えていた。元々洗面所でいつまでも手を洗うほどの潔癖な性質に加え、こうしたさまざまな焦燥感によるストレスと昼夜逆転の荒んだ生活などから精神的に不安定な状態が顕著となり、鹿沼に対して顔面に重傷を負わせるほどの暴力に及んだかと思えば、逆に突然鬱状態に陥り「舞台で死ねたら役者として本望」「自分は必要ない人間じゃないか」と悲観的な言葉を発するようになるなど不安な日々が続いていた。2003年(平成15年)3月25日、東京都文京区の自宅で首つり自殺を図り死去。午後6時頃、外出から帰った妻は、夫が寝室から出た気配がないことに気づき、部屋をのぞいてみると、天井に渡された鉄パイプに空手の黒帯が結ばれており、古尾谷は床につかないように足をくの字に曲げた姿でぶら下がっていたという。享年45。


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長身の演技派として独特の存在感を放った古尾谷雅人。名脇役として、『北の国から’87 初恋』で田中邦衛からもらった2万円を「おやじの手についてた泥だろう。お前の宝にしろ。一生とっとけ」と言って吉岡秀隆に渡すトラック運転手を印象深く演じ、また『金田一少年の事件簿』で演じた剣持警部は当たり役となった。現役の名優として活躍していただけに、自殺という幕切れは驚きをもって迎えられた。没後、オファーの減少や親戚とのトラブルによって鬱を発症していたことが明らかになった古尾谷雅人。妻に「僕が死んだら、僕の偉大さがわかるよ」という言葉を残した彼の墓は、埼玉県川口市のヒルズ川口にある。洋型の墓には「古尾谷家」とあり、その下には彼の似顔絵が刻まれ、左横に墓誌が建つ。戒名は「天鴻院漲演日雅居士」。

by oku-taka | 2024-06-10 14:13 | 俳優・女優 | Comments(0)