人気ブログランキング | 話題のタグを見る

小野田寛郎(1922~2014)

小野田寛郎(1922~2014)_f0368298_21580768.jpg

小野田 寛郎(おのだ ひろお)

旧陸軍少尉
1922年(大正11年)〜2014年(平成26年)

1922年(大正11年)、和歌山県海草郡亀川村(現在の海南市)に生まれる。旧制海南中学校時代は剣道選手として活躍。中学校卒業後は民間の貿易会社(田島洋行)に就職し、中華民国の漢口支店(現在の中国・武漢市)勤務となり中国語を習得した。1942年(昭和17年)12月、満20歳のため徴兵検査(徴募)を受け、本籍のある和歌山歩兵第61連隊(当時同連隊は戦地に動員中のため、その留守部隊)に現役兵たる陸軍二等兵として入営。同時に留守部隊をもとに編成された歩兵第218連隊に転属し、同連隊にて在営中に甲種幹部候補生(予備役将校を養成)を志願。これに合格し、1944年(昭和19年)1月に久留米第一陸軍予備士官学校へ入校する。卒業後、漢語や英語が堪能だったことから選抜され、同年9月に陸軍中野学校二俣分校へ入校。諜報・諜略・防諜・偽装・潜行・破壊などの特殊任務を叩き込まれたが、主に遊撃戦の教育を受け、退校命令を受領。陸軍見習士官を経て予備陸軍士官(少尉)に任官された。同年12月、フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、残置諜者および遊撃指揮の任務を与えられフィリピンに派遣される。当地では第14方面軍隷下の第8師団参謀部付(配属)となっており、その師団長である横山静雄陸軍中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と日本軍の戦陣訓を全否定する訓示を受けている。派遣にあたり、高級司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるとの計画であった。12月31日、フィリピンのルバング島に着任。マニラのあるルソン島に上陸しようとする米軍を阻止するため、小野田はマニラから南西約150kmにあるルバング島の飛行場の破壊などの命令を受けて島に渡った。着任後は長期持久体制の準備、後方撹乱のゲリラ戦術の指導に着手した。一部の下士官は小野田の指導方針に従う姿勢を示したが、多くの将兵は日本軍の一般的な『速戦即決・短期決戦』型の戦術と相容れない内容と、小野田には指揮権がないため訓練効果も上がらないままアメリカ軍の来襲を迎える。1945年(昭和20年)2月27日、海兵隊50名の先行上陸が行われ、翌2月28日のアメリカ軍約1個大隊1000名の上陸後、日本陸軍の各隊はアメリカ海軍艦艇の艦砲射撃の大火力に撃破され、3日間の戦闘の後、総指揮官・月井大尉の命令で組織的戦闘は終了して各隊個別行動に移行する。圧倒的な軍事力を誇る米軍にフィリピン全域を制圧された。同年8月の終戦後も、アメリカ軍の敗戦通告と投降の呼びかけに応じず、一等兵赤津勇一、伍長島田庄一、上等兵小塚金七らと共にルバング島に残った。4人は作戦を継続し、ルバング島が再び日本軍の制圧下に戻った時のために密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。同年9月、赤塚が夜間行動中に小野田グループを見失って単独行動となり、1950年(昭和25年)7月にフィリピン警察に投降。保護された地元警察でこれまでの島での生活を証言したことで、小野田ら3人の残留日本兵が存在することが判明する。日本政府は、投降した元日本兵の証言などを基に日本軍将兵の無事帰国のため特別対策本部を設立。1954年(昭和29年)5月7日、警察隊との銃撃戦で島田が射殺。これを受けフィリピン政府は残留兵捜索隊の入国を許可する。その後、赤津など投降者の証書に基き何度も残留日本兵捜索が行われるが、未発見に終わる。1959年(昭和34年)12月11日、戸籍法89条に基づいて厚生省引揚援護局は12月10日に「死亡日・昭和29年5月8日」として「死亡公報」を出し、翌11日に公示された。なお、これに合わせて翌12月12日には故郷の和歌山県海南市にて親類の手により葬儀が行われた。1969年(昭和44年)5月31日には、第62回戦没者叙勲により、戦没者として勲六等単光旭日章に叙され、靖国神社に合祀となった。一方の小野田は、戦後間もなくフィリピンがアメリカ合衆国の植民地支配からの独立を果たしたものの、両国の協定によりアメリカ軍はフィリピン国内にとどまることとなったことを「アメリカ軍によるフィリピン支配の継続」、またフィリピン政府を「アメリカの傀儡政権」と解釈し、その後も持久戦により在比アメリカ軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、使用した武器は99式短小銃、38式歩兵銃、軍刀、そのほかに放火戦術も用いた。この際、弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾(薬莢がセミリムド型で交換の必要あり)を九九式実包の薬莢に移し替えて使用していた。29年間継続した作戦行為によって、フィリピン兵士、警察官、民間人、在比アメリカ軍の兵士を30人以上殺傷したとされる。ただし、アメリカ軍司令官や兵士の殺傷に関して、アメリカ側にはそのような出来事は記録されておらず、実際に殺傷したのは武器を持たない現地住民が大半であった。また、小野田は住民から奪取した短波トランジスタラジオにこちらも住民の小屋から奪った銅ワイヤーを使った自作アンテナを取り付け、BBC、ABC、北京放送、ラジオピョンヤン、ラジオジャパンなどの放送を聴取することで独自に世界情勢を判断。日本の短波放送だけでなく、「現在の情勢を理解できないがゆえにルバング島で戦闘を継続しているのだろう」と考えた日本からの残留兵捜索隊が現地に残していった日本の新聞や雑誌からも情勢について把握していた。皇太子明仁親王(当時)成婚、1964年(昭和39年)の東京オリンピック、東海道新幹線開業などの記事によって、日本が繁栄していることを理解していた。一方、投降を呼びかけられていても、二俣分校での教育を思い出し、終戦を欺瞞であり敵対放送に過ぎないと思っていた。朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけても、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始されたのだと考え、また在比アメリカ軍基地からベトナム戦争へ向かうアメリカ空軍機を見かけても、いよいよアメリカは日本に追い詰められたのだと信じたのだという。このように、彼にもたらされた断片的な情報と、戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかったために、小野田は20年間も戦い続ける結果となった。末期には、短波ラジオで日本短波放送の中央競馬実況中継を聞き、戦友小塚と賭けをするのが唯一の娯楽であった。しかし、1972年(昭和47年)10月19日に起きたフィリピン警察隊との銃撃戦で小塚を亡くしてからは、長年の闘いと孤独により疲労を深めていった。一方、フィリピン警察と銃撃戦になったことで残留日本兵の生存が分かり、厚生省援護局職員および小野田と小塚の家族、戦友が逐次ルバング島に赴く。遺体が小塚金七一等兵であることを確認した後、小野田の捜索が行われるが発見には至らなかった。同年、厚生大臣・塩見俊二は自らルバング島に渡り、小野田救出の活動にあたった。1973年(昭和48年)3月には第4次捜索隊が結成。日本政府が中心になって行われた合計3度の捜索活動は、9,021万円の国費をかけて延べ1万7,270人(うち日本から106人を派遣)を動員し、二俣分校で隣のベッドで寝起きしていた増田民男(当時陸上自衛隊二佐)なども参加したが小野田を見つけることはできず、4月に打ち切られた。1974年(昭和49年)、一連の捜索活動に触発された23歳の冒険家・鈴木紀夫が単独でルバング島を訪れ、2月20日にジャングルで孤独にさいなまれていた小野田との接触に成功する。日の丸を掲げてテントを張っていた鈴木は小野田に急襲され、銃を突きつけられた。鈴木が「僕は単なる日本人旅行者です。あなたは小野田少尉殿でありますか?。長い間ご苦労さまでした。戦争は終わっています。僕と一緒に日本へ帰っていただけませんか?」と伝えた。落ち着きを取り戻して銃を置いた小野田は鈴木と話して夜を明かし、小野田は上官の命令解除があれば任務を離れることを了承した。この際、鈴木は小野田の写真を撮影した。3月4日、鈴木とともに小野田の元上官谷口義美(元陸軍少佐)がルバング島に渡る。3月9日に小野田は2人の前に姿を現し、谷口による任務解除命令を受けて投降した。この際、谷口が任務解除の命令(「尚武集団作戦命令」と「参謀部別班命令」)を小野田に伝達した。3月10日の夜、小野田は軍刀を持ってフィリピン軍レーダー基地に移動し、ホセ・ランクード司令官に対して投降式を行った。徒歩で移動する間、小野田を憎む住民らに小野田らが襲撃されることを予防するため、フィリピン空軍将校2名が同行した。司令官が小野田から軍刀を受け取り、小野田に返却するという儀式の後、記者会見が開かれた。翌日、小野田は大統領フェルディナンド・マルコスとマラカニアン宮殿で面会。小野田ら残留兵による略奪・殺人・放火に苦しめられた島民は少なくなかったが、マルコスは小野田がフィリピンで犯した犯罪行為について恩赦を与えた。この時に交わされた外交文書によれば、日比両政府による極秘交渉の中で小野田ら元日本兵により多数の住民が殺傷されたことが問題視され、フィリピンの世論を納得させるためにも何らかの対応が必要とされたという。フィリピンに対する戦後賠償自体は、日比賠償協定によって解決済みとされていたが、小野田によるフィリピン民間人殺傷と略奪のほとんどは終戦以降に発生したものであり、反日世論が高まることへの懸念から、日本政府はフィリピン側に対し「見舞金」という形で3億円を拠出する方針を決定した。こうして、“約30年間”にも渡る小野田にとっての大東亜戦争が終わり、1974年(昭和49年)3月12日に日本航空の特別機で日本の羽田空港へ帰国を果たした。日本メディアの報道合戦は過熱し始め、マニラに集結した各社は競うように帰国直前の小野田の様子などを報じた。小野田の日本帰国は日本人に衝撃を持って受け止められ、日本の主要テレビ各局が特別番組を編成した。3月12日16時15分から66分間にわたりNHKで放送された報道特別番組「小野田さん帰国」は45.4%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)の視聴率を記録。新聞主要紙の社説の論調は小野田を戦争の犠牲者と位置付ける傾向があった一方、直後に新聞投書欄に寄せられた市民の意見の中には小野田の任務への忠実さを賞賛し英雄視するものが多く見られた。小野田に対し、日本国政府は見舞金として100万円を贈呈するが、小野田はこれを拒否。しかし、見舞金を渡されたので、小野田は見舞金と方々から寄せられた義援金の全てを靖国神社に寄付した。また、小野田の帰国直後から複数の出版社により、小野田の初となる手記を巡って依頼が殺到し、講談社がこれをものにした。手始めに1974年(昭和49年)5月9日のゴールデンウィーク特別号で、小野田の写真を含めた全22ページの独占手記「戦った、生きた」を掲載すると瞬く間に完売した。その後14週に渡って手記を掲載し、同年9月にこれらをまとめた『わがルバング島の30年戦争』が講談社から出版され、ベストセラーとなった。同じく長期残留日本兵として2年前に帰国し、驚くほど早く戦後の日本に適応した横井庄一と異なり、小野田の場合は父親との不仲や一部マスコミの虚偽報道もあり、戦前と大きく価値観が変貌した日本社会に馴染めなかった。帰国当初は大きな話題になったため、マスコミにつけ回され、一挙手一投足を過剰取材の対象にされて苦しんだ。帰国直後の健康診断のため小野田が入院した病院の周りをメディアが取り囲んだり、退院後に郷里の和歌山の実家に向かった後も報道メディアが小野田を常に取材対象として追いかけた。実家の上を飛ぶ取材ヘリコプターの音が、ゲリラ戦時の敵軍航空機の音となってフラッシュバックされるなど、平穏な生活は送れなかった。帰国から半年後の1975年(昭和50年)、ブラジルで牧場を経む次兄を頼って移住し、兄と同じく小野田牧場を経営することを決意。バルゼア・アレグレ移住地 (マット・グロッソ州テレーノス郡)にて、約1,200haの牧場を開拓した。1979年(昭和54年)、5月に発足した「バルゼア・アレグレ日伯体育文化協会」初代会長に就任。1984年(昭和59年)7月、「凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めた」として「祖国のため健全な日本人を育成したい」と、サバイバル塾『小野田自然塾』を主宰。全国の子どもたちにキャンプ生活の極意や初歩的なサバイバル術などを指導した。1989年(平成元年)には、私財を投じて自然塾を主宰する「財団法人小野田自然塾」を設立。また、ルバング島での潜伏生活の回想やサバイバル術などその後も多くの著書を刊行し、作家としても活動。書店でサイン会を行うなどした。2004年(平成16年)、ブラジル空軍より民間最高勲章メリット・サントス・ドモントを授与される。2005年(平成17年)11月、藍綬褒章を受章。晩年は保守系の活動家として、日本を守る国民会議、日本会議代表委員等を歴任。社団法人日本緑十字社理事にも就任した。慰安婦問題の真偽に対しては日本の責任を否定する立場であり、2007年(平成19年)7月13日に米国大使館に手渡された米下院121号決議全面撤回を求めるチャンネル桜主導の抗議書に賛同している。また、田母神論文問題で更迭された田母神俊雄元航空幕僚長を支持する「田母神論文と自衛官の名誉を考える会」には、発起人として名を連ねている。2009年(平成21年)5月15日には、「小野田寛郎の日本への遺言」と題した講演を2時間に渡って行った。その後も講演活動を続けていたが、2011年(平成23年)頃から膵臓癌を発症。2014年(平成26年)1月16日午後4時29分、肺炎のため東京都中央区の聖路加国際病院で死去。享年91。


小野田寛郎(1922~2014)_f0368298_21580727.jpg

小野田寛郎(1922~2014)_f0368298_21580895.jpg

小野田寛郎(1922~2014)_f0368298_21580950.jpg

太平洋戦争の終結後もフィリピンのジャングルに潜伏し、戦後29年目にして日本に帰還した陸軍少尉・小野田寛郎。陸軍中野学校で特殊訓練を受け、ルバング島への派遣後はゲリラ戦を展開。以後、昭和49年まで終戦を信じず、密林の中でひたすら戦い続けた。その頑なに貫いた忠君愛国精神は、「戦後の繁栄と物質主義の中で、日本人の多くが喪失していると感じていた誇りを喚起した」「古いサムライのようだった」と評された一方で、「軍人精神の権化」「軍国主義の亡霊」という批判もあった。また、同じ残留日本兵であった横井庄一に対しても、横井が「天皇陛下より拝領された」兵器である銃剣を穴掘り道具に使ったことを聞き、何度か持ち上がった横井との対談企画を拒否し続けたという。そんな生真面目さ故に、変わり果てた日本社会に馴染めず、また命がけで守ろうとした日本の光景に深く絶望し、次兄のいるブラジルへと身を移した。戦争に翻弄された気骨ある日本男児の一人であった小野田寛郎の墓は、茨城県稲敷市の釣船寺にある。自然石の墓には「南無佛」とあり、右横に墓誌が置かれている。戒名は「心忠院寛譽慈濟清居士」。

by oku-taka | 2024-05-05 22:00 | 軍人 | Comments(0)