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高野公男(1930~1956)

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高野 公男(たかの きみお)

作詞家
1930年(昭和5年)〜1956年(昭和31年)

1930年(昭和5年)、茨城県西茨城郡北山内村(現在の笠間市大郷戸)に生まれる。本名は、高野 吉郎(たかの きちろう)。小学生の頃から本が好きで、文章を書くことも好きな少年だった。西茨城郡北山内尋常高等小学校を卒業後、上京して軍需工場で働く。その後、小松川工業高校、向島工業高校を経て東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)に入学し、詩作の道に入る。1949年(昭和24年)、栃木県出身で後に作曲家となる船村徹と出会う。同じ訛りの北関東出身者同志ということで意気投合し、高野の詞に船村が曲を付け、レコード会社に売り込みに行く日々を送る。しかし、なかなか採用されず、互いにアルバイトをしながら苦しい日々を何年も続けた。1954年(昭和29年)、ビクターレコード専属の作詞家としてデビューしたが、これといったヒット曲を出せず、鳴かず飛ばずの状態が続いた。もう後がないと思い、いくつかの曲を売り込みに行ったキングレコードで春日八郎を担当していたスタッフの目にとまり、1955年(昭和30年)に春日の歌唱による『別れの一本杉』が発表される。この曲は当時50万枚のセールスを記録し、船村徹と高野公男の活動も本格化。続けて手がけた『あの娘が泣いてる波止場』(三橋美智也)、『ハンドル人生』(若原一郎)もヒットとなった。しかし、間もなく肺結核を発症して国立水戸病院に入院。船村は治療費を稼ぐため精力的に仕事をし、忙しい仕事の合間を縫って水戸の病院へ高野を見舞った。1956年(昭和31年)、コロムビアレコードから招かれた船村は、「高野と二人揃って」というのを条件に専属を承諾。8月には、コロムビア入社第1作『早く帰ってコ』(青木光一)を発表した。9月8日午後6時50分、肺結核のため国立水戸病院で死去。享年26。枕元にはびっしり書き込んだ3冊の作詞ノートが遺され、この作詞ノートは高野の母から船村に託された。船村は作品として世に出していくことを誓い、『男の友情』(青木光一)、『三味線マドロス』(美空ひばり)など、多くの作品がレコードになった。


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高度経済成長の時代、集団就職などで都会に出てきた若者たちの心を捉えたのが「ふるさと歌謡」と呼ばれた一連のヒット曲たち。その礎を築いたのが、作詞家の高野公男と作曲家の船村徹コンビであった。多くの人が地方から都市へと移り住んでいた時代、高野青年は酔うと船村に「いずれ田舎の時代が来る」と語っていたそうである。その言葉通り、都会に出る者と田舎に残る者の感情を歌へと昇華させ、歌謡界に「ふるさと歌謡」の時代を到来させた。しかし、高野は肺結核に侵され、その時代を見ることなく26歳で夭折してしまった。残された相棒の船村は、「おれは茨城弁で作詞する。おまえは栃木弁でそれを曲にしろ」という高野の言葉を胸に活動を続け、文化勲章を受章するまでの大作曲家となった。「故郷」にこだわり続けた高野公男の墓は、茨城県笠間市の大郷戸集落墓地にある。五輪塔型の墓には「髙野公男之墓」とあり、左側面に墓誌が刻む。右側には、船村徹による献歌『友よ』の詞が刻まれた碑、そして墓域入口には、髙野の略歴が刻まれた「髙野公男(吉郎)の譜」と「別れの一本杉 髙野公男作詞」の碑が建つ。高野から船村に贈られた『男の友情』、船村から高野に贈られた『友よ』。終生変わらぬ友情を結んだ2人は今、あの世で61年ぶりの再会を果たしていることだろう。

by oku-taka | 2024-04-08 00:32 | 音楽家 | Comments(0)