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村下孝蔵(1953~1999)

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村下 孝蔵(むらした こうぞう)

シンガーソングライター
1953年(昭和28年)〜1999年(平成11年)

1953年(昭和28年)、熊本県水俣市浜町仲之町通りに生まれる。1959年(昭和34年)、一家で鹿児島県出水市本町商店街に転居したが、1年ほどで水俣市仲之町通りに戻る。この頃、姉とともにロカビリーに夢中となり、日劇ウエスタンカーニバルの映像を映画館で観て、歌手への憧れを口にするようになる。また、エレクトリック・ギターの音に興味を抱くようになり、寺内タケシとブルージーンズを好んで聴いていたが、やがてベンチャーズに夢中となった。1965年(昭和40年)、映画『エレキの若大将』で加山雄三の「夜空の星」を聴いたことをきっかけに「ボクも作曲する。歌う。エレキ・ギターも持つ」と言うようになる。かねてから両親にエレキ・ギターをせがんでいたが、「不良になるからダメ」、「弾けもしないうちから買ってどうする」といった理由で聞き入れられなかった。そこで、加山のギターをモデルにラワン材を使って1ヵ月がかりでギターを自作。ギターが完成すると三面鏡の前に立ち、加山の演奏スタイルを真似ていたという。中学の2年生のとき、父から「ベンチャーズの曲をちゃんと弾けたらギターを買ってやる」と条件を出され、友だちのギターを借りて猛練習し、「ダイアモンド・ヘッド」を父の前で演奏。結果、日本製のグヤトーンのエレキ・ギターを買い与えられた。1969年(昭和44年)、憧れだったモズライト・ギターを父から買い与えられる。その後、阿蘇市に転居。小学校4年のときに『海の若大将』を観て感動し、中学時代から競泳の平泳ぎの選手として活躍。オリンピックを目指し、水泳部の特待生として鎮西高等学校体育科に入学。寮生活を送った後、北九州市の短期大学に入学した姉と熊本市内で同居した。1971年(昭和46年)、鎮西高等学校を卒業。大学進学を諦め、得意の水泳でスカウトされた実業団・新日本製鐵八幡製鐵所に入社する。しかし、水泳のタイムが伸びず、会社を辞めようと思っていたが、工場長からギターが弾けるんだからと会社のハワイアンクラブを勧められて入部。宴会部長として活躍するが、ハワイアンが自身の音楽志向に合わず、同年9月に退職。当時父が広島市に転居していたことから、村下も広島フォーク村がありフォークの聖地とも言われていた広島に移り、音楽中心の生活を目指す。1972年(昭和47年)、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科に入学。当時の広島は吉田拓郎のコピーをやる人が多く、フォーク・ギターを持たなければ仲間が作れなかったことから、エレキ・ギターをフォーク・ギターに持ち替え、学校の仲間と4人グループ「カラフル」を結成する。同年夏、自主制作シングル『ひとりぽっちの雨の中』を発表。日本デザイナー学院広島校を卒業後、ヤマハ広島店に就職。1975年(昭和50年)からはピアノ調律師として勤務する傍ら、ホテル法華クラブ広島のラウンジで弾き語りのアルバイト等で地道に音楽活動を継続した。その後、偶然観た村下の演奏に惹かれた中国放送ラジオ制作部の那須和男ディレクターが、『たむたむたいむ』のラジオパーソナリティに村下を推薦。同番組で当時まだ大学生だった西田篤史とコンビを組む。1978年(昭和53年)には那須が担当していた全国ネット番組『青春音楽列島』で紹介され大きな反響を呼ぶ。1979年(昭和54年)、ラジオ番組『ひろしま青春大通り!ヤンヤン放送局』の音楽コーナーを担当。プロ歌手への誘いやレコード会社への斡旋話もあったが、いずれも実現せず、資金稼ぎに奮闘しながら曲づくりに励む。同年、ヤマハを退社。7月25日、自費制作アルバム 『それぞれの風』を発表。この頃には第2期の広島フォーク村に参加するなど広島の音楽好きには知られた存在となっていたが、『それぞれの風』でヤマハ主催のポピュラー音楽コンテストに応募するも受賞はならなかった。その後、知人のライブハウス店主から勧められ、当時のCBS・ソニー(現在のソニー・ミュージック)の全国オーディション「第1回CBS・ソニーSDオーディション」に応募。CBS・ソニーとしては、当時流行っていた山下達郎や南佳孝などのシティポップのアーティストを探しており、フォーク系でそれなりに年齢も重ねていた村下の将来性を巡ってはCBS・ソニー社内でも意見が分かれた。プロデューサーとして村下の全作品を手がけた当時のディレクター・須藤晃によると「このオーディションで一番レコードが売れるのは村下孝蔵だ」と断言する者もいれば「フォークはもう終わりだぞ。ラジオスターの時代じゃなくルックスの時代なんだ」と村下のルックスや年齢に難色を示す者もいた。ただ楽曲や声の良さは誰もが認めるところで、須藤の押しや、中国放送がバックアップしていたこともあり、グランプリを獲得。1980年(昭和55年)5月21日、シングル 『月あかり』でプロデビューした。プロとなった後もテレビ出演はせず、広島を拠点にライブ活動を地道に続ける。1981年(昭和56年)1月にリリースされた2枚目シングル『春雨』は、地道なプロモーションを重ねてチャート最高位58位を記録し、およそ3ヵ月半に渡ってチャートにランクインした。1982年(昭和57年)発売の『ゆうこ』は、北海道札幌の有線で火がついて全国的ヒットになり、チャート最高位23位を記録。約7か月半にわたってチャートインした。1983年(昭和58年)、シングル『初恋』がオリコンチャートで最高3位を記録する大ヒット。同曲はリリース直後にアイドルの三田寛子とプロ野球選手の田尾安志によりCMでもカバーされ、知名度を高めるきっかけとなった。この曲の発売の前後に全国キャンペーンなどのハードスケジュールが原因で肝炎を患い、多くのイベント、番組出演などをキャンセル。これが原因で広島と東京の往復ができなくなり、1984年(昭和59年)末に生活の拠点を東京に移した。その後も『踊り子』、『少女』と立て続けにヒット曲を飛ばし、同年秋からは全国ツアーを開始した。しかし、1985年(昭和60年)に再び体調が悪化し、入退院を繰り返した。1987年(昭和62年)、全国ツアーを再開。この年に催した七夕コンサートは毎年の恒例行事となった。同年9月、シングル『陽だまり』が『めぞん一刻』の主題歌の一つとして起用される。その後もコンスタントにシングルやアルバムを発表するとともに、高田みづえ、裕木奈江、柳葉敏郎、中原理恵らに曲を提供。また、バイオリニストの天満敦子とジョイントコンサートを行い、クラシックとポピュラー音楽との融合を図るなど、新しい領域にも積極的に挑戦した。1999年(平成11年)6月20日、駒込のスタジオでコンサートのリハーサル中に「気分が悪い」と体調不良を訴える。当初は救急車も呼ばず、スタッフ付添のもと自力で虎ノ門病院を訪れていたが、診察でCTの装置に入った時点で意識不明の昏睡状態に陥った。診察の結果「高血圧性脳内出血」と判明し、医師の所見では、当初1週間ほどで回復して日常に戻れると言われていた。その後、脳内出血が再発し、6月24日に死去。享年46。


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歌う吟遊詩人・村下孝蔵。どこか儚い旋律と美しい日本語の歌詞で評価され、抒情派フォークの流れを汲むシンガーソングライターとして支持を集めた。しかし、その哀愁を帯びたメロディーと素朴な歌声は、フォークからニューミュージックに流行が移った当時の音楽界にはあまりマッチせず、大きなヒットは『初恋』と『踊り子』のみとなってしまった。『冬物語』『青い嵐』『私一人』といった名曲もあり、他のアーティストに曲を提供することもあったが、いずれもヒットには至らなかったのは残念であった。高い音楽性で切なさの極みを歌い続けた村下孝蔵の墓は、茨城県筑波市の筑波茎崎霊園にある。墓には「南妙法蓮華経」とあり、左側には墓誌とレコード会社関係者から寄せられたメッセージが刻まれた碑が、右側に村下を模した「ギター地蔵」と村下の略歴が刻まれた碑が建つ。戒名は「乾闥院法孝日藏清居士」。

by oku-taka | 2024-03-24 14:02 | 音楽家 | Comments(0)