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高柳健次郎(1899~1990)

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高柳 健次郎(たかやなぎ けんじろう)

科学者
1899年(明治32年)〜1990年(平成2年)

1899年(明治32年)、静岡県浜名郡和田村(現在の静岡県浜松市中央区安新町)に生まれる。尋常小学校時代、学校に海軍の水兵がやってきて見せてくれたモールス信号のデモンストレーションに感銘を受ける。13歳の頃に起こったタイタニック号沈没事件では、米国の一無線技師サーノフ(後のRCA社長)がこの惨事を無線でキャッチし、これを全世界に無線で伝えたことを新聞記事で知り、通信に興味を抱くようになる。その後、静岡師範学校を経て、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)附設工業教員養成所に入学。在学中は初代の東京工業大学学長となる中村幸之助氏の薫陶を受ける。1921年(大正10年)、同校を卒業。神奈川県立工業学校(現在の神奈川県立神奈川工業高等学校)の教諭を勤めながら、米英独仏4ヵ国の専門誌を数誌ずつ3年分購読予約し、ドイツ語やフランス語を夜学で勉強。電気通信の分野において情報収集に勤しむ。この頃、アメリカのウェスチングハウス(Westinghouse Electric Corporation)がピッツバーグでラジオ局を開局し、多くの人に音楽や会話を同時に聞かせる「放送」が行われていた。これを受け高柳は、「遠くに映像を送る手段を発明できないか」と案を練っていたところ、ラジオ受信機の上に額縁のようなものが乗り、中で女性歌手が歌っている「テレビジョン」という構想が、フランスの専門誌にイラストで示されているのを発見。この「テレビジョン」の発明を決意し、1923年(大正12年)には「無線遠視法」として提唱した。しかし、1924年(大正13年)9月1日の関東大震災で神奈川県立工業学校が被災。そのため、1924年(大正13年)に郷里の浜松にできたばかりの浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)に助教授として着任した。並行して「無線遠視法」(テレビジョン)の研究を本格的に開始。しかし、予算の凍結によって一度は頓挫。そこで、芝浦製作所(現在の東芝)に交渉し、実験の協力を依頼。1926年(大正15年)12月25日、石英版に書いた「イ」の字の映像を機械式の円形撮像装置で読み取って、電子式のブラウン管に送り、映像を映し出すことに成功。。「イ」の文字はいろは順の最初の文字として選んだ。1927年(昭和2年)、文部省の自然科学研究奨励費の対象となり、同年6月には特許権を取得。同年11月28日、電気学会主催の発表会が開かれ、無線による映像の送受信を実演した。1930年(昭和5年)、静岡を訪れていた昭和天皇の御前で、より鮮明な映像をブラウン管に映し出す実験に成功。これを機会に浜松高等工業学校の教授に昇格し、「テレビジョン研究施設」としての子算計上、大勢の研究貝を職員として認められるなど、急転の体制強化が実現した。当時、テレビの開発は世界各地で同時に行われており、その方式は大きく分けて機械式と電子式の2つがあった。機械式は円形板に渦巻き状に小さな穴をたくさん開けて回転させた映像をコマ送りで送り、同じように穴を開けた円形版を通して映像を映し出す方式で、こちらの方が先行していたが、高柳は巨大な真空管=ブラウン管を使って映像を再生する電子式の方に将来があると確信。電子式の撮像管作りに苦闘する高柳は、同時期にテレビの開発を進めていた米国RCA社(Radio Corporation of America)のツヴォルキン(Vladimir Koz'mich Zworykin)と連絡をとって渡米。ツヴォルキンが考案した電子式の撮像管アイコノスコープは圧倒的に綺麗な映像を送ることができ、開発予算もケタ違いであることに驚嘆。これを受け、高柳はオリジナルのアイコノスコープを開発した。1937年(昭和12年)、浜松工業学校の教授の籍を残したままNHKに出向。出向に当たっては高柳の助手10人も研究員としてNHK入りしたほか、世田谷区喜多見の技術研究所に新たな研究室が建設されるなど高待遇で迎えられた。研究室では東京オリンピックのテレビ放送を目指してテレビ受像機の研究を本格的に開始したが、日中戦争の激化等で1938年(昭和13年)に東京オリンピックの中止が決定。テレビの研究も中断させられ、レーダーや奮龍の誘導装置など、軍事関連の研究をすることになった。終戦後、NHKに戻ってテレビの研究を再開するが、GHQの指令によりテレビの研究を禁止させられる。また、軍属だったことが災いとなり、公職追放となった。1946年(昭和21年)、日本ビクターに弟子と共に入社。自身が中心となり、NHK、シャープ、東芝と共同で再びテレビ開発に没頭する。同年、産官学共同でテレビ技術の研究開発を行う団体として組織された「テレビジョン同好会」の委員長に就任。同学会はその後文部省認可の社団法人「テレビジョン学会」(後の映像情報メディア学会)に改組された。1952年(昭和27年)、日本のテレビ放送標準式の検討で、カラー化を視野に入れた周波数7メガへルツ幅の採用を主張。しかし、郵政省・電波監理委員会は、アメリカが先行採用している6メガヘルツ案準拠を主張し、結局アメリカ技術が優秀との先入観と早期事業化への便宜を優先した「6メガ派」が押し切る形で、走査線525本のアメリカ方式が採用となる。1953年(昭和28年)1月、シャープから国産第1号の白黒テレビが発売。 同年2月に日本放送協会(NHK)がテレビ本放送を開始。その当時は高価だったことから、一般家庭における購入者は富裕層がほとんどであったため、同年8月に開局した日本初の民放テレビ局である日本テレビ放送網(日本テレビ・日テレ)が広告料収入と受像機の普及促進を兼ねる形で街頭テレビを設置。当時の看板番組で、力道山戦などのプロレス中継、巨人戦が主のプロ野球中継、大相撲中継などのスポーツ中継に人が集まり、喫茶店や銭湯などにも家庭用テレビが業務用途に設置する動きも見られるようになった。1959年(昭和34年)には皇太子明仁親王の成婚パレードが中継され、これを境にテレビの普及が進んだ。1950年代後半から1960年代初頭までには、白黒テレビは電気洗濯機や電気冷蔵庫などとともに「三種の神器」の一つに数えられるようになった。一方の高柳は、1955年(昭和30年)4月に紫綬褒章を受章。1956年(昭和31年) 12月にはNHKでカラーテレビの実験放送が開始。以降はカラーテレビ改良に尽くし、1959年(昭和34年)に世界初の 2ヘッドVTRを開発。翌年には放送用2ヘッドカラーVTRも開発。日本のカラーテレビを世界最高水準のレベルに高め、代表的輸出商品としての急成長に貢献した。1961年(昭和36年)5月、国際無線通連合(ITU)第1回世界TV祭でRCAのサーノフとともに功労者表彰を受ける。同年11月、日本ビクター専務取締役に就任。1963年(昭和38年)4月、世界最小VTR「KV200」を開発。1970年(昭和45年)11月、日本ビクター代表取締役副社長に就任。1973年(昭和48年)11月、日本ビクター技術最高顧問に就任。1974年(昭和49年)2月、科学放送振興協会理事長に就任。1974年(昭和49年)11月、勲二等瑞宝章を受章。1980年(昭和55年)11月3日、文化功労者に選出。1981年(昭和56年)11月3日、文化勲章を受章。1984年(昭和59年)10月、高柳記念電子科学技術振興財団を設立し、理事長に就任。電子科学技術の振興のため、高柳健次郎賞、高柳健次郎業績賞、研究奨励賞、科学放送高柳賞を制定した。1987年(昭和62年)7月、米国アラバマ州立大学の名誉教授となる。1988年(昭和63年)10月、米国映画テレビ技術者協会(SMPTE)名誉会員に推挙。1988年(昭和63年)11月、静岡大学の名誉博士を与えられる。1989年(平成元年)4月、勲一等瑞宝章を受章。1990年(平成2年)7月23日、肺炎により死去。享年91。


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今や一家に一台が当たり前となったテレビを生み出し、「テレビの父」と称された高柳健次郎。テレビはおろかラジオも開局していなかった頃から「テレビジョン」の研究に力を注いできた。世界で初めてブラウン管に映し出したかの有名な「イ」の字は、大正時代に行った実験の結果というから驚かされる。世界で最初にテレビジョンの開発に成功という偉業を成し遂げながらも決して威張らず、その温厚さと穏やかな話し方が印象的であった高柳健次郎の墓は、静岡県浜松市の妙恩寺にある。五輪塔の墓には「高柳家之墓」とあり、右側に墓誌が建つ。戒名は「暁覺院創造興谷日健人居士」。

by oku-taka | 2024-03-17 11:01 | 学者・教育家 | Comments(0)