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藤田まさと(1908~1982)

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藤田 まさと(ふじた まさと)

作詞家
1908年(明治41年)〜1982年(昭和57年)

1908年(明治41年)、静岡県榛原郡川崎町(現在の牧之原市)に生まれる。本名は、藤田 正人。1918年(大正7年)、小学校3年を修了と同時に旧満州の遼寧省大連へ渡り、私塾「振東学社」に入る。その後、大連商業学校に進学。在学中は柔道・野球を得意とし、中等野球全国大会「甲子園」にも出場した。1926年(大正15年)、大連商業学校を卒業。内地に戻り、明治大学に入学したが、1928年(昭和3年)に3年生で大学を中退。「野球」が縁で日本ポリドール蓄音機株式会社に入社し、文芸部に配属。外国解説文の翻訳にあたる。1929年(昭和4年)、社長命令で『ウエートレスの唄』(四家文子)を書き、創作活動にはいる。1930年(昭和5年)、処女詩集『太陽が雲の中で苦笑した話』を出版。1933年(昭和8年)、小唄集「ボクの街」を出版。1935年(昭和10年)、制作課長に就任。同年、『旅笠道中』(東海林太郎)、『大江戸出世小唄』(高田浩吉)、『明治一代女』(新橋喜代三)と手がけた曲が次々に大ヒットとなり、一躍人気作詞家となる。1936年(昭和11年)、文芸部制作部長兼専属芸術室長に就任。1938年(昭和13年)、文芸顧問兼専属作詩家となり、11月には『麦と兵隊』(東海林太郎)を発表。1940年(昭和15年)、戦争詩集『征旅の人々』を出版。1941年(昭和16年)、東海林太郎、作曲家の長津義司とともにテイチク専属となるが、1944年(昭和19年)に退社。1946年(昭和21年)、東京タイムズの運動部嘱託記者となる。親友・サトウハチローの「『リンゴの唄』が大ヒットしても作家がむくわれないのは不合理だ」との話から大日本音楽著作権協会常務理事に就任し、著作権問題と対峙する。同年、再度テイチクの専属となるが、1947年(昭和22年)に退社し、ポリドールにカムバックした。同年、日本音楽著作衆組合を結成し、古賀政男とともに副委員長となる。1951年(昭和26年)、マーキュリーに移籍。また、旧著作権法第30条1項8号の撤廃運動に着手する。1953年(昭和28年)、三たびテイチクに移籍。1954年(昭和29年)、第二次世界大戦後、ソ連による抑留からの引揚船で、引揚港の桟橋へ帰ってくる息子の帰りを待つ端野いせのインタビューを聞いているうちに身につまされ、母親の愛の執念への感動と、戦争へのいいようのない憤りを感じて『岸壁の母』を作詞。歌手には専属の菊池章子が選ばれ、藤田にとって久々の大ヒットとなった。その後も『親子舟唄』(田端義夫・白鳥みづえ)、『面影いずこ』(白根一男)などのヒットを手がけたが、1956年(昭和31年)に日本グラモフォンへ移籍。1959年(昭和34年)、再びテイチクに移籍。翌年、『お吉物語』(天津羽衣)を手がけて大ヒットとなる。1969年(昭和44年)、紫綬褒章を受章。1970年(昭和45年)、念願であった著作権法案が国会において可決し、翌年1月1日から「新著作権法」が施行。1973年(昭和48年)には日本音楽著作家連合会の会長に就任した。1978年(昭和53年)、勲三等瑞宝章を受章。1979年(昭和54年)、71歳で自分のレコードを出し、歌手としてもデビュー。1982年(昭和57年)8月16日、心不全のため東京・池上の島田総合病院にて死去。享年74。没後、作詞した『浪花節だよ人生は』が大ヒット。もともと小野由紀子のシングルのB面曲として発表されたが、この曲の歌詞を自分の人生の引き写しのように感じたという二代目木村友衛が生前の藤田に直訴。地道なキャンペーンの努力が実り、徐々に人気を獲得。これを受けて歌手16人、レコード会社13社による競作としてレコードが制作され、1984年(昭和59年)にその人気は最高潮に達した。同年大晦日の第26回日本レコード大賞では細川たかしが最優秀歌唱賞、木村が特別賞を受賞し、同日の第35回NHK紅白歌合戦では水前寺清子と細川による同曲対決が行われた。


藤田まさと(1908~1982)_f0368298_23274299.jpg

戦前から戦後にかけ、多くのヒット曲を生み出した作詞家の藤田まさと。戦前はポリドールの専属作詞家として、東海林太郎、新橋喜代三、上原敏といった歌手をスターに押し上げるとともに、「股旅もの」という新たなジャンルを確立した。また、映画俳優であった高田浩吉の美声を活かし、日本初の歌う映画スター誕生に貢献したことは特筆すべき点である。戦後は人の生き様をそれまで以上に描き、『岸壁の母』『傷だらけの人生』といった歌謡史に残る大ヒット作を世に送り出した。50年以上にのぼる作詞家生活において、各年代で大きなヒット曲を持ち、かつ没後にも手がけた曲が大ヒットとなるという、非常に稀有な作詞家であった藤田まさとの墓は、静岡県牧之原市の照国寺にある。墓には「藤田家の墓」とあり、訪問時にはなかったが近年になって左側に墓誌も建立された。戒名は「大光院壽德正詠居士」。

by oku-taka | 2024-03-12 23:29 | 音楽家 | Comments(0)