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小川国夫(1927~2008)

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小川 国夫(おがわ くにお)

作家
1927年(昭和2年)〜2008年(平成20年)

1927年(昭和2年)、静岡県志太郡藤枝町長楽寺(現在の藤枝市本町)に生まれる。1934年(昭和9年)、青島小学校に入学。1938年(昭和13年)、肺結核に腹膜炎を併発し入院。3ヶ月後に自宅療養となり、1941年(昭和16年)に復学するまで安静療養状態が続いた。この自宅療養の時期に相当量の読書をしたことが、その後の人生に影響を与えることになる。1942年(昭和17年)、旧制志太中学校(現在の藤枝東高等学校)に入学。学徒勤労動員で用宗海岸にある小柳造船所に通う。1946年(昭和21年)、旧制静岡高等学校(静岡大学の前身校の1つ)文科乙類に入学。この頃、カトリックの洗礼を受ける。洗礼名は、アウグスチノ。1950年(昭和25年)、東京大学文学部国文科に入学。1953年(昭和28年)、「東海のほとり」を『近代文学』に発表。同年10月にはフランスへわたりパリ・ソルボンヌ大学に3年間私費留学。1954年(昭和29年)7月、グルノーブル大学へ移籍。スペイン、北アフリカへ、単車のヴェスパで旅行する。同年12月、スイスへ旅行し、フライブルクの修道院に24日間滞在。1955年(昭和30年)7月、イタリア、同年9月ギリシアへそれぞれ40日間の単車ヴェスパにて旅行。10月下旬にパリへ出て滞在。1956年(昭和31年)3月からドイツ、オーストラリア、イギリスを旅行する。同年7月、フランス留学を終えて帰国。東京大学には復学せず、そのまま創作活動に入る。1957年(昭和32年)、丹羽正、金子博等と共に同人雑誌『青銅時代』を創刊。第1号に「アポロンの島」と8つの短編を発表する。1957年(昭和32年)10月、ヨーロッパを放浪した体験を自伝風に描いた『アポロンの島』を私家版で刊行。全く売れずにいたところ、1965年(昭和40年)6月に同作を唯一買った島尾敏雄が突然小川家を訪問。同年9月5日の『朝日新聞』「1冊の本」欄で、『アポロンの島』を島尾が激賞する。これが契機となり、1966年(昭和41年)から商業雑誌に登場。1969年(昭和44年)、『ゲヘナ港』が芥川賞候補にされるが辞退。その後、『或る聖書』、『試みの岸』、『彼の故郷』など、簡潔な文体で光と影の原初的光景の中に人間の行為を映し出した作品を発表し、内向の世代を代表する作家となった。1986年(昭和61年)、『逸民』で川端康成文学賞を受賞。1990年(平成2年)4月、大阪芸術大学文芸学科の教授に就任。平家物語、芭蕉、芥川などを講じる。後に創作演習ゼミ、卒業制作ゼミを担当し、学生に小説の書き方を教える傍ら、同大学発行の文芸雑誌『河南文学』『河南文藝文学篇』の編集人を務めた。1994年(平成6年)、『悲しみの港』で伊藤整文学賞を受賞。1999年(平成11年)、『ハシッシ・ギャング』で読売文学賞を受賞。2000年(平成12年)、日本芸術院賞を受賞。2005年(平成17年)、日本芸術院会員に選出。2006年、旭日中綬章を受章。2008年(平成20年)4月8日、静岡市内の病院で肺炎のため死去。享年80。


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「内向の世代」を代表する作家の一人、小川国夫。30歳の時に自費出版した『アポロンの島』は一冊も売れず、その8年後に島尾敏雄から絶賛され、突如として文壇に登場。以降、非現実や抽象に基づくイメージを簡潔な文体で描き、郷里の静岡県や地中海を舞台にした作品やキリスト教を主題とする作品を発表し続けた。若い頃は賞嫌いとして知られ、晩年まで静岡県からは離れなかったことなど、目立つ活動から距離を置いていた寡黙な作家・小川国夫の墓は、静岡県島田市の敬信寺にある。3基ある墓のうち、小川国夫が納骨されている墓には「南無阿弥陀仏」とあり、左側に墓誌が建つ。なお、20歳でカトリックの洗礼を受けていることから戒名はなく、洗礼名アウグスチノも刻まれていない。

by oku-taka | 2024-03-03 11:50 | 文学者 | Comments(0)