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赤木圭一郎(1939~1961)

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赤木 圭一郎(あかぎ けいいちろう)

映画俳優
1939年(昭和14年)〜1961年(昭和36年)

1939年(昭和14年)、東京府麻布区麻布笄町(現在の東京都港区西麻布)に生まれる。本名は、赤塚 親弘(あかつか ちかひろ)。戦時中に一家で神奈川県鎌倉市に疎開し、そのまま終戦を迎えた。湘南学園小学校に入学したが、その後三浦郡葉山町に引っ越した事で葉山小学校に転校。小学生時代は家の裏山で友達とインディアンごっこをしたり、妹と一緒に海で泳ぐなどしていた。中学は父の希望でクリスチャン系の私立の名門・栄光学園に入学するも、勉学第一の校風に馴染めず地元の鵠沼中学校に転校した。鎌倉高校時代は帰宅部であったが、スポーツ好きだった為、助っ人を頼まれては柔道、テニス、ボクシング、水泳などの様々な部に一日入部する形で色々と楽しんだ。一方、中学時代に横須賀の港を見て航海士に憧れ、中南米などを船で旅する夢を抱く。船乗りになるつもりで、高校卒業後の進路を水産系の学科がある大学や商船学校を志望したが、両親に反対されたため成城大学に進学先を変更。文芸学部に進学し、気ままな学校生活を送っていた1年生の夏休みに、父の囲碁仲間だった日活プロデューサー・高木雅行にスカウトされる。当人は「いいアルバイトになる」と軽い気持ちでこの誘いに乗って後日オーディションを受ける。当時日活は二枚看板俳優だった石原、小林に続く新人俳優を探しており、赤木は全国2万人を超える応募者の中から男8人女13人の「第4期ニューフェイス」の1人として選ばれて入社した。その後、石原裕次郎主演の『紅の翼』に本名の「赤塚親弘」名義で群衆の一人としてエキストラ出演し、これが映画デビュー作となった。当初は本名で活動したが、入社からほどなくして井上梅次監督から「もっと簡単で親しみやすい芸名にした方がいい」と改名を助言され、井上の考案で、井上の母校である慶應義塾大学で当時野球部で活躍していた赤木健一から名前を借り、「下の名前は、石原裕次郎にあやかって三文字にしよう」ということから“赤木圭一郎”に決まった。1959年(昭和34年)、『拳銃0号』で演じた不良少年役が評判になった後、鈴木清順監督の『素っ裸の年令』で初主演を果たす。この映画で赤木の人気に手応えを感じた日活は、『清水の暴れん坊』と『鉄火場の風』で石原と共演させ、これらの映画も評判となった。その西洋的風貌や退廃的な雰囲気がこれまでの日本人俳優にはない個性として評判を呼び、当時人気のあったハリウッドスターのトニー・カーティスにどことなく風貌が似ていたことから「トニー」の愛称で呼ばれるようになる。1960年(昭和35年)1月、日活は赤木、石原、小林旭に和田浩治を加えた4人で「ダイヤモンドライン」を結成させ、それぞれ毎月1本ずつのペースで彼らの主演映画を製作することを決定。主演した『拳銃無頼帖』シリーズの第一作『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』は、赤木にとって初のカラー作品にして大ヒットとなり、トニー人気は不動のものとなった。この頃から月収も15万円まで跳ね上がった(大卒の初任給が1万数千円の時代)。同年12月、映画製作者協会の新人賞を受賞。その後も20本以上の無国籍アクション映画に主演し、日活のアクション俳優として「タフガイ=石原裕次郎」「マイトガイ=小林旭」に続く「第三の男」と呼ばれた。また、『霧笛が俺を呼んでいる』では少年時代からの憧れだったという船乗りを演じ、「マドロス姿が最もさまになる日活俳優」とも評価された。歌手としても、日本グラモフォン(ポリドール)から『霧笛が俺を呼んでいる』をはじめとする数々のヒット曲をリリースした(生前レコーディングしたのは、全部で25曲)。しかし、人気俳優の仲間入りを果たしたことで、この頃から撮影スケジュールに追われるようになる。少しでも通勤時間を減らすため、東京・調布市の撮影所付近に住んでいた山崎辰夫撮影所長の自宅に間借りしたが、目覚まし時計を3個使わないと起きられないほど寝不足に苦しんだ。1961年(昭和36年)1月、『激流に生きる男』で主演を演じるはずだった石原裕次郎が、スキーで転倒して骨折したことで赤木にその代役が回ってくる。ただでさえ多忙だった赤木は、この映画への参加により超人的なスケジュールを送ることとなった。2月14日、午前中に栄養剤を2本飲んで撮影を行った後、昼休みの日活撮影所の中庭では俳優や歌手たちの行列ができていた。そこでは輸入代理店のセールスマンが持ってきた、当時アメリカで流行していたゴーカートを試乗させていた。赤木は疲労困憊だったが運転が好きだったことから、「すぐに撮影始まるから先に乗せてよ」と言ってヘルメットを被ってゴーカートに乗り込んだが、撮影所内を走り出した直後にブレーキとアクセルを咄嗟に踏み違え、60 km/h以上のスピードで大道具倉庫の鉄扉に激突。東京都北多摩郡狛江町(現在の狛江市)にある慈恵医大病院に緊急搬送された後に緊急手術が行われた。病院には家族や俳優仲間日活関係者、多数の報道陣が詰めかけ騒然となった。医師は赤木の関係者に「生命が危ぶまれる」と告げたが、事故の翌日に日活は会見を開くと、周りを安心させるためか「重症に見えるが脳は大丈夫」と告げたという。手術後も危篤状態が続いたが、翌19日朝9時頃に意識を回復。ガーゼに浸した水を自分で飲んだが、20日に再び容態が悪化して昏睡状態となり、21日午前7時50分、前頭骨亀裂骨折に伴う硬膜下出血のため死去。享年21。


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劇的な幕切れで21年という短い生涯を駆け抜けた赤木圭一郎。日活のアクション映画黄金期に颯爽と登場し、「トニー」の愛称で瞬く間にスターとなった。映画主演のみならず流行歌の吹き込みも行い、特に『霧笛が俺を呼んでいる』は映画・主題歌共にヒットとなった。石原裕次郎、小林旭に次ぐ人気スターとして将来を嘱望されていたが、撮影の合間に運転したゴーカートでスタジオの壁に衝突。ジェームス・ディーンのように不慮の事故で夭折となってしまった。21才という若さ、そして衝撃的な死によって伝説の俳優となった赤木圭一郎の墓は、静岡県富士宮市の大石寺にある。墓には「妙法蓮華経 赤塚家」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は「英俊院法親信士」。

by oku-taka | 2024-02-19 02:45 | 俳優・女優 | Comments(0)