人気ブログランキング | 話題のタグを見る

安倍晋太郎(1924~1991)

安倍晋太郎(1924~1991)_f0368298_19572788.jpg

安倍 晋太郎(あべ しんたろう)

政治家
1924年(大正13年)〜1991年(平成3年)

1924年(大正13年)、安倍寛の長男として東京市四谷区に生まれる。本籍地は山口県大津郡油谷町大字蔵小田(現在の長門市)。生後間もなく郷里の山口に戻り幼少期を過ごす。晋太郎が生まれて80日後に両親が離婚した。旧制山口中学校(現在の山口県立山口高等学校)に進学。一年間浪人した後、1943年(昭和18年)に第六高等学校(岡山市)に入学。1944年(昭和19年)9月、1年半で繰り上げ卒業。東京帝国大学法学部に進学するが、同年10月に海軍滋賀航空隊へ予備学生として入隊させられた。太平洋戦争終結後、改称された東京大学法学部に復学。1946年(昭和21年)1月29日、父が心臓麻痺で倒れ、翌年には“育ての親”ともいえる大伯母が死去した。1949年(昭和24年)、東京大学を卒業し、毎日新聞社に入社。政治部に配属される。1950年(昭和25年)6月、岸信介の長女と見合いをし、1951年(昭和26年)5月に結婚。1956年(昭和31年)12月23日、石橋湛山内閣が成立。岸が外相として入閣したのを機に毎日新聞を退職し、外務大臣秘書官となった。1957年(昭和32年)2月25日、第1次岸内閣が成立。安倍は内閣総理大臣秘書官に就任した。1958年(昭和33年)、第28回衆議院議員総選挙に郷里の旧山口1区から自民党公認を得て立候補。安倍が出馬したことにより、地元の旧日置村では、父の地盤を継いだ周東英雄を推す主流派と、安倍派に分裂したが、2位で初当選する。この時の総選挙では竹下登、金丸信が初当選しており、新人時代からの盟友関係が後の「安竹同盟」まで繋がった。1960年(昭和35年)11月20日、第29回衆議院議員総選挙では4番目の得票数で再選。しかし、1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙では次点で落選した。支持母体流動化など選挙区の情勢から政界への復帰が危ぶまれていたが、2回連続落選しては復活の目途が立たなくなるため、義父である岸信介元首相および叔父である佐藤栄作首相二人から異例の仲介が為され、同選挙区選出議員で地盤も重なる吉田茂直系の周東英雄の後援会長を務めていた山口県水産業会の重鎮・藤本万次郎を後援会長に迎えた。1967年(昭和42年)、第31回衆議院議員総選挙で衆議院議員に返り咲く。1969年(昭和44年)の総選挙は、周東の後継者として元通産省職員の林義郎が立候補。林の父親で、サンデン交通社長の林佳介は安倍の後援会長を、母親も安倍の婦人部の会長を務めていた。しかし、林が出馬したことから林家傘下の山口合同ガスなど下関市の有力企業のほとんどは林の支援に早変わりし、苦戦を強いられるもトップで当選を果たす。下関市では「異端者」であった安倍は、幅広い層からの支持や支援を必要とした。そこで、同市に多い在日コリアン系の人々がその一翼を担うこととなった。山口県在日本朝鮮人商工会会長などを務めた朝鮮総聯系の呂成根、パチンコ業界大手の七洋物産創業者の吉本章治などからの支援を受けた。自民党では、岸派とそれを継承した福田派に所属し、派閥領袖であった福田赳夫を支え、田中派との党内抗争「角福戦争」を争った。安倍は岸の全面的支援を背景として、福田派における世代交代の旗手と位置づけられていった。行政面では、自民党農林・外交・国防各部会の副部会長、農林政務次官を務めるなど、農政を得意としながら外交などでも研鑽を積む。衆議院大蔵委員長を経て、1974年(昭和49年)三木武夫内閣において農林大臣として初入閣。以後、1976年(昭和51年)に自民党国会対策委員長を務め、1977年(昭和52年)福田改造内閣の内閣官房長官となり、日中平和友好条約締結などに関与。1978年(昭和53年)、福田の自民党総裁再選への流れを作るためには衆議院解散が有効と考えた安倍は「解散風」を煽るが、金丸信防衛庁長官が解散反対を公言するなどして解散は頓挫。同年暮れの総裁選で福田は大平正芳に敗れ、福田内閣は退陣する。1979年(昭和54年)11月、大平総裁の下で党政調会長に就任。福田派が大平と対立する中で、それぞれ籍をおく執行部と福田派の板ばさみになる。1980年(昭和55年)5月のハプニング解散の際には、政調会長と党執行部の一員でありながら内閣不信任決議採決直前に福田派議員によって議場から連れ出される一幕もあった。1981年(昭和56年)11月、政調会長を退任。同年11月30日、鈴木善幸改造内閣が発足し、通商産業大臣に就任した。1982年(昭和57年)10月12日、鈴木善幸は首相退陣を表明。田中派の支援する総裁候補であった中曽根康弘に対抗すべく、福田は安倍の総裁選出馬への支持を表明。総裁予備選開催に必要な4人の立候補者を出した上で河本敏夫を総理総裁とする反田中派政権を樹立する目論見であったが、安倍への党員の支持が伸び悩み、泡沫候補と思われていた中川一郎にも脅かされ最下位に転落する可能性も見えた。同年11月24日、総裁選予備選が行われ、1位中曽根、2位河本、3位安倍、4位中川、と中曽根が過半数を大きく上回る得票で1位につけたため、河本以下の候補は本選挙を辞退し、ここに福田派の目論見も潰えた。1982年(昭和57年)11月27日、第1次中曽根内閣が成立。中曽根は安倍に閣僚人事の相談をするなど、安倍重視の姿勢を見せる。安倍は外務大臣として入閣し、連続4期務めた。安倍は必ずしも国際派というわけでもなかったが、義父・岸信介の米国人脈を生かし、韓国などアジア諸国との外交にも尽力したこともあり、マスメディアなどでは「外交の安倍」という評価を受けるようになった。一方でパフォーマンスに長けた中曽根の陰に隠れ、外相としても新機軸を打ち出せずに終わったとも言われ、ポスト中曽根を目指して打ち出した政策である「グローバル・ニューディール」も、国民世論の理解を得たとは言い難かった。1986年(昭和61年)7月6日、衆参同日選挙が執行され、自民党が大勝。同年7月14日、福田赳夫は派閥会長の座を安倍に禅譲。7月22日に第3次中曽根内閣が発足すると、安倍は党総務会長に就任した。中曽根の総裁任期満了が近づくと、後継総裁候補として安倍、竹下、宮澤が出馬表明するが、禅譲によって影響力を残したい中曽根は、安竹の親友関係や角福戦争の後遺症に目を付け、安竹連合による選挙の実施を阻止するため、様々な情報を出して撹乱し、総裁選挙の実施を阻んだ。三角大福中時代の熾烈な党内抗争に辟易としていた安竹宮3人は、話し合いによる後継総裁決定を模索。3人による話し合いは10月10日から6回行われたが、調整は最後までうまくいかなった。投票期限の10月19日、「候補者一本化を総裁に一任する」との報告が総裁・四役会議に出される。中曽根は調停役を引き受け、3人は候補辞退届を提出した。自民党の歴史の中で、「後継指名」や「裁定」の形をとったことは何度かあるものの(池田による佐藤指名、及び椎名裁定による三木指名)、有力候補が揃って退任間際の総裁に、自らへの指名を期待して裁定を仰ぐという異例な事態は、中曽根の巧みさとともに、ニューリーダーの「ひ弱さ」を印象づけることにもなった。中曽根は党本部の総裁室で福田赳夫、鈴木善幸、二階堂進の意見を個別に聞き、選考作業をすすめた。10月20日午前0時、中曽根は党四役を総理官邸に呼び、選考結果を伝達した。同日午前0時25分、党本部の総裁応接室に待機する3人に対し、伊東正義政調会長が中曽根の書いた「自民党総裁候補の指名について」という文書を読み上げ、竹下が後継総裁に指名された。中曽根の後継指名は極秘裏に進められ、かつ様々な煙幕を張っていたために、憶測が乱れ飛んだ。特に意図的にか、事前に裁定文の1枚目が漏れ、そこに「国際関係が重要である」といった趣旨のことが書かれていたため、外交経験が少ない竹下ではなく、安倍・宮澤が有力なのではないかといった予想が飛び交った。時事通信は「安倍総理誕生」と誤報を打ち、総裁選挙の可能性が取りざたされていた頃『ニュースステーション』は独自の総裁選シミュレーションを行ない、安倍総務会長が竹下、宮澤を抑え第12代自民党総裁に選出すると予測したりした。同年11月6日、竹下内閣が成立し、安倍は自民党幹事長に就任。消費税導入などで、国会対策の先頭に立ち、「ポスト竹下」の最有力候補として自他共に認める存在であった。1988年(昭和63年)、自身の秘書がリクルートコスモス(現在のコスモスイニシア)の非公開株を譲り受けていたためリクルート事件に巻き込まれ、自民党が定めた「1年間、もしくは次の総選挙まで党の役職を辞退する」という内規の対象となる。1989年(平成元年)4月18日、順天堂大学医学部附属順天堂医院に入院。表向きには「総胆管結石治療」による入院と述べていたが、当時はリクルート事件のほとぼりを冷ますための避難入院と見る政治評論家もいた。 5月、膵臓癌により膵臓から十二指腸、胃の一部まで取る手術を行った。長期入院を余儀なくされ、同年7月25日に退院。1990年(平成2年)1月には、ソビエト連邦を訪問した。総理・総裁就任に向けて、全国各地で安倍派の新人議員を擁立し、同年2月に行われた第39回衆議院議員総選挙では自派から若手議員を大量に当選させた。同年6月に訪米するも、8月に病状が悪化し、9月6日に検査入院。9月10日にいったん退院するも、14日に再入院した。この際、次男の晋三から「癌です」と告げられるが、「ああ、やっぱりそうか」と反応しただけだったという。病状悪化により9月20日から予定されていた訪ソを断念。1991年(平成3年)1月19日、「かぜのため」として再入院すると、党内で重病説がささやかれるようになる。4月中旬、来日中のソ連邦初代大統領ミハイル・ゴルバチョフの歓迎昼食会に出席。これが安倍にとって最後の政治活動となった。5月15日、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。享年67。



安倍晋太郎(1924~1991)_f0368298_19572840.jpg

安倍晋太郎(1924~1991)_f0368298_19572737.jpg

新聞記者から政界に転じた安倍晋太郎。父と同じ国会議員の道を歩み、田中内閣時代には「外交の安倍」として、ニューリーダーの一人と称されるほどの活躍ぶりを見せた。やがて「安竹宮」の一人として総裁選を争うも、角福戦争の悪影響と政治的影響力を残したい中曽根による影響を受け、そのチャンスを逃すことになった。その後も、「総裁の椅子に最も近い男」と評価されながら、リクルート事件で追及を受け、ついには病に倒れ、総理総裁の座に就くことはなかった。志半ばで世を去った悲運のプリンス・安倍晋太郎の墓は、山口県長門市油谷と静岡県駿東郡の冨士霊園にある。後者の墓には「安倍家」とあり、右側に墓誌が建つ。戒名は「慈徳院壂譽晋順政照大居士」。

by oku-taka | 2024-02-03 20:04 | 政治家・外交官 | Comments(0)