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岸信介(1896~1987)

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岸 信介(きし のぶすけ)

政治家
1896年(明治29年)〜1987年(昭和62年)

1896年(明治29年)、山口県吉敷郡山口町八軒家(現在の山口市)に生まれる。出生名は、佐藤 信介(さとう のぶすけ)。岡山市立内山下小学校から岡山中学校に進学したが、学費や生活費の面倒を見ていた叔父が肺炎により急逝したため、2年と1ヶ月で山口に戻り、山口中学校に転校。中学3年生の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となる。1914年(大正3年)、山口中学校を卒業。間もなく上京し、高等学校受験準備のため予備校に通ったが、勉強より遊び癖の方がつきやすく、受験勉強そっちのけでしばしば活動写真や芝居を見に行ったりした。第一高等学校の入学試験の成績は最下位から2、3番目だったが、高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄、三輪寿壮とは常に成績を争った。1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部に入学。法学部の入学試験はドイツ語の筆記試験だけで難なく合格した。大学時代は精力を法律の勉強に集中し、ノートと参考書のほか一般の読書は雑誌や小説を読む程度で、一高時代のように旺盛な多読濫読主義ではなく、遊びまわることもほとんどなかった。このころの岸は社会主義に関心を寄せてカール・マルクスの資本論やフリードリヒ・エンゲルスとの往復書簡などを読んだものの、国粋主義的な北一輝と大川周明の思想の方に魅了されている。1920年(大正9年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。国粋主義者の上杉慎吉の木曜会と興国同志会に属し、上杉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧めたが、岸は官界を選び、「これからは産業」とあえて農商務省に入る。農商務省へ入ると、当時商務局商事課長だった同郷の先輩、伊藤文吉から「外国貿易に関する調査の事務を嘱託し月手当四十五円を給す」という辞令をもらった。同期には平岡梓(三島由紀夫の父)、三浦一雄、吉田清二などがいたが、入って間もなく、岸は同期生およそ20名のリーダー格となった。1925年(大正14年)、農商務省が商工省と農林省に分割されると商工省に配属された。その当時の上司が、吉野作造の弟で後に商工省の次官・大臣となった吉野信次であり、当時文書課長だった吉野と岸と臨時産業合理局の木戸幸一が重要産業統制法を起案実施したとされる。1933年(昭和8年)2月に商工大臣官房文書課長、1935年(昭和10年)4月には商工省工務局長に就任。自動車製造事業法の立法に貢献した。1936年(昭和11年)10月、満洲国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には総務庁次長に就任。この間に計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満洲「産業開発5ヶ年計画」を実施。大蔵省出身で、満洲国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄した星野直樹らとともに、満洲経営に辣腕を振るう。同時に、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、里見機関の里見甫の他、椎名悦三郎、大平正芳、伊東正義、十河信二らの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満洲国の5人の大物「弐キ参スケ」の1人に数えられた。また、山口県出身の同郷人、鮎川義介・松岡洋右と共に「満洲三角同盟」とも呼ばれた。その後、伍堂卓雄商工大臣が当時の商工次官だった村瀬直養の反対を押し切って岸の次官起用を決定したことから、1939年(昭和14年)10月に帰国して商工次官に就任する。近衛文麿から第2次近衛内閣の商工大臣への就任要請された際は財界の人間にすべきとして断り、企画院総裁に星野を推薦した。その後、商工大臣となった小林一三と対立し、直後に発生した企画院事件の責任を取って辞任した。1941年(昭和16年)、10月に発足した東條内閣に商工大臣として入閣。『米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書』に署名し、太平洋戦争中の物資動員の全てを扱った。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙で当選し、政治家としての一歩を踏み出した。1943年(昭和18年)、商工大臣として経団連の前身となる商工経済会設置法を成立。10月8日、東條首相兼陸軍大臣が商工大臣をも兼任し、岸は無任所相となり兼ねて再び商工次官に任命。このため衆議院議員も退職となった。11月1日には戦局激化への対応として商工省が廃止されて軍需省へと改組、軍需大臣は引き続き東條首相兼陸相の兼任、岸は無任所相兼軍需次官と、半ば降格に近い処遇により、東條との関係に溝が生じた。 1944年(昭和19年)7月9日にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となった。宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がり、木戸と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、東條内閣の倒閣工作が密かに進められた。同年7月13日には、難局打開のため内閣改造の意向を示した東條に対し木戸は、東條自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと、嶋田繁太郎海軍大臣の更迭と重臣の入閣を求めた。東條は木戸の要求を受け入れ、内閣改造に着手しようとしたが、その矢先に岸が「サイパン陥落に伴って今後本土空襲が繰り返されるであろうから軍需次官としての責任が果たせない」として講和を要求し、ならば辞職せよと東條に迫られるも拒否して閣内不一致を現出させた。岸の更迭は重臣入閣枠を空けるための既定路線であり、内閣改造を頓挫させるために岡田と申し合わせて辞職を拒否したともされる。これを受けて東條側近の四方諒二東京憲兵隊長が岸宅に押しかけ恫喝するも、「黙れ、兵隊」と逆に四方を一喝して追い返した。この動きと並行して木戸と申し合わせていた重臣らも入閣要請を拒否。東條は内閣改造を断念し、7月18日に内閣総辞職となった。総辞職後も岸への怒りが収まらない東條は、新たに組閣の大命を受けた小磯国昭との会談で、暗に岸を指して一部の前閣僚には前官礼遇を与えないことを要請した。1945年(昭和20年)3月11日、岸は翼賛政治会から衣替えした親東條の大日本政治会には加わらず、反東條の護国同志会を結成した。8月15日の戦争終結後、故郷の山口市に帰郷するが、軍需次官などを勤めた経歴が祟り、日本を占領下に置いた連合国軍からA級戦犯被疑者として9月15日に逮捕され、東京の巣鴨拘置所へ拘置された。自殺する政治家や軍人もいたなか、岸は「名にかへて このみいくさの 正しさを 来世までも 語り残さむ」と裁判で堂々と主張するつもりで、「われわれは戦争に負けたことに対して日本国民と天皇陛下に責任はあっても、アメリカに対しては責任はない。しかし勝者が敗者を罰するのだし、どんな法律のもとにわれわれを罰するか、負けたからには仕方がない」「侵略戦争というものもいるだろうけれど、われわれとしては追い詰められて戦わざるを得なかったという考え方をはっきり後世に残しておく必要がある」として臨んだ。また、「今次戦争の起こらざるを得なかった理由、換言すれば此の戦は飽く迄吾等の生存の戦であって、侵略を目的とする一部の者の恣意から起こったものではなくして、日本としては誠に止むを得なかったものであることを千載迄闡明することが、開戦当初の閣僚の責任である」「終戦後各方面に起こりつつある戦争を起こした事が怪しからぬ事であるとの考へ方に対して、飽く迄聖戦の意義を明確ならしめねばならぬと信じた」とも述べている。さらに獄中では「日本をこんなに混乱に追いやった責任者の一人として、やはりもう一度政治家として日本の政治を立て直し、残りの生涯をかけてもどれくらいのことができるかわからないけれど、せめてこれならと見極めがつくようなことをやるのは務めではないか」と戦後の政治復帰を戦争の贖罪として考えるようになった。極東国際軍事裁判(東京裁判)では、開戦を実質的に決めた大本営政府連絡会議の共同謀議には参加していなかったこと、東条英機首相に即時停戦講和を求めて東条側からの恫喝にも怯まず東条内閣を閣内不一致で倒閣させた最大の功労者であること、元米国駐日大使ジョセフ・グルーらから人間として絶対的な信頼を得ていたことなどの事情が考慮されたため、東條ら7名のA級戦犯が処刑された翌日の1948年(昭和23年)12月24日、不起訴となり放免された。ただし、多くの戦争指導者同様に公職追放の身のままであり、表立って政治活動をすることは不可能なままであった。巣鴨監獄出所後の翌日には、岸の親友で財界の重鎮であった藤山愛一郎より、彼が経営する日東化学の監査役を依頼され、彼から豊富な活動資金を供給されることになる。そして、1949年(昭和24年)には銀座の交詢社ビル別館の7階に「箕山社」と名乗る事務所を構え、その年の暮れから「箕山社」を株式会社として正式活動させ始める。公職追放処分中の岸は、更に東洋パルプの会長などを務めていた。この会社は永野護がプロモートして広島県呉市に工場を建設した会社で、岸が会長、社長が足立正、取締役が永野、藤山愛一郎、津島寿一、三好英之、監査役瀬越憲作であった。しかし、経営がうまくいかず後に王子製紙に売却した。1952年(昭和27年)、サンフランシスコ講和条約の発効にともない公職追放が解除。4月、「自主憲法制定」、「自主軍備確立」、「自主外交展開」をスローガンに掲げた日本再建連盟を設立し、会長に就任。1953年(昭和28年)、日本再建連盟の選挙大敗により日本社会党に入党しようと三輪寿壮に働きかけるも、党内の反対が激しく入党はできず、1月13日自由党入党の意向を表明し、首相吉田は了承し、3月18日に正式入党した。4月、公認候補として衆議院選挙に当選して吉田から憲法調査会会長に任じられて自主憲法制定を目指すも、1954年(昭和29年)に吉田の「軽武装、対米協調」路線に反発したため自由党を除名された。1954年(昭和29年)11月、鳩山一郎と共に日本民主党を結成し幹事長に就任。かねて二大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導した。1955年(昭和30年)8月、鳩山政権の幹事長として重光葵外相の訪米に随行し、29日-31日のジョン・フォスター・ダレス国務長官と重光の会談にも同席。ここで重光は安保条約の対等化を提起し、米軍を撤退させることや、日本のアメリカ防衛などについて提案したが、ダレスは日本国憲法の存在や防衛力の脆弱性を理由に非現実的と強い調子で拒絶。岸はこのことに大きな衝撃を受け、以後安保条約の改正を政権獲得時の重要課題として意識し、そのための準備を練り上げていくことになる。10月、左右両派に分裂していた日本社会党が再び合同したため、これに対抗して11月に新たな自由民主党が結成。岸は同党の初代幹事長に就任した。1956年(昭和31年)12月14日、自民党総裁に立候補するが7票差で石橋湛山に敗れ、外務大臣として石橋内閣に入閣。「自由主義国としての立場の堅持」「対米外交の強化」「経済外交の推進」「国内政治に根差す外交」「貿易中心の対中国関係」の外交五原則を発表した。1957年(昭和32年)1月24日、セイロンで開催予定であったアジア太平洋地域公館長会議を東京に変更させ、日本外交の方針として共産圏対策、アジア・アフリカ諸国との友好関係、アジア太平洋地域での通商促進の三点を訓示し、後に「アジア太平洋地域は日本外交の中心地」と宣言した。その翌日、石橋が病に倒れたことから首相臨時代理を務め、石橋総理の代役で施政方針演説を行った。その後、石橋により後継首班に指名され、国会の首班指名時において自民党総裁以外の自民党議員が指名された形となった。2月25日、石橋内閣を引き継ぐ形の「居抜き内閣」で前内閣の全閣僚を留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任。就任記者会見では「汚職、貧乏、暴力の三悪を追放したい」と抱負を述べ、「三悪追放」が流行語にまでなった。首相就任の1ヵ月後の3月21日には、自民党総裁にも就任。また石橋内閣が提唱していた1千億円減税も就任直後に実施した。4月からはイギリスに松下正寿特使を派遣し、核実験禁止をアピール。国連でも積極的に核実験問題を喚起し、アメリカやイギリスの反発を買った。その一方、米兵が農婦を射殺するジラード事件が発生し、裁判管轄権が日本側にないということが明らかになると世論は激昂し、日米安保は危機に瀕した。この事件によって、旧日米安保条約下では日本がアメリカに基地を提供する一方でアメリカ側には日本を防衛する義務はなく、また日本はアメリカの基地使用に対する発言権もないという不平等性が国民に対しても明らかになった。「政治生命をかけた大事業」と安保改定に意気込む岸は、首相に就任した直後から駐日米国大使ダグラス・マッカーサー2世と内密に協議を重ね、「安保条約は、日本国民の多数によって日本の対米従属的地位の象徴として見られている。知らざる間に自動的に戦争に巻き込まれてしまう危惧を抱くこととなり、日本国民の戦争嫌悪感情と相まって安保条約反対の空気を強める結果となっている」と揺さぶりをかけつつも、沖縄などの返還合意・5年後を目処とした日本国憲法9条の改正・安保改定と「相互防衛」が可能な体制構築といったビジョンを示し、5月20日に「国防基本方針」を閣議決定。アメリカの懸念を払拭するために、日米協力による日本の安全保障、国力に応じて防衛力を漸増することなどを明記した。5月20日、インド、パキスタン、セイロンなど六カ国を訪問。5月23日にはインドのネルー首相と核実験禁止問題を討議した。6月には米国へ渡り、アイゼンハワー大統領と首脳会談、安保改定の検討を約束させた。6月20日のアメリカ議会での演説では国際共産主義の脅威を唱え、翌日の記者会見では「日本は絶対に共産主義や中立主義に走らない」と述べた。国賓としての訪米であり、アメリカ国内の移動には大統領専用機が貸与される厚遇ぶりであったが、ダレス国務長官や制服組のトップであるラドフォード統合参謀本部議長との会談は厳しいものであった。この席で岸は「秘密保護法についてはいずれ立法措置を講じたいと思っている」とラドフォードの求めに応じている。7月、第1次岸改造内閣が発足。この内閣改造で、外務大臣に藤山愛一郎を抜擢し、「アジア外交のなかでも中共の問題を」やってもらうと岸は述べた。藤山外相は9月10日の参議院外務委員会で「アメリカと協調するというよりは、日本は自由主義陣営の立場をとる」と明言。9月28日には当時自由陣営の中で珍しく中華人民共和国と国交を持っていたイギリスのロイド外相と会談し、中国問題で密接に連絡を取り合うことを約束した。10月、国連安保理非常任理事国に当選。前年12月に国連に加盟してからは、核兵器廃絶決議を提出して成立、イギリスの核実験への抗議、レバノン紛争ではアメリカと異なる決議案を出し採決され、米国からも感謝された。レバノン紛争では、翌年に国際連合平和維持活動(PKO)を求められたが、自衛隊の海外派遣は難しかったので拒絶した。12月、二度目のアジア歴訪に出て、オーストラリア、フィリピン、インドネシアを周り、反日感情の強いオーストラリアでは戦争について率直に謝罪し、戦争賠償問題に積極的に取り組むとした。12月24日の日豪首脳会談では、「日豪両国は過去を忘れ、大きな筋において将来強い協力関係に入るべきだ」と訴えた。このようなアジア重視の政策の背景には、当時欧州共同体体制の誕生によって世界経済がブロック化する情勢からも日本が東南アジアに進出する必要が藤山から要求されたこと、また、バンドン会議でのインドや中国の躍進、周恩来のアジア歴訪による影響力拡大への対抗、そしてアメリカに対しては日米関係がうまく調整できなければ「アジアへの回帰」を選択するという、アジアをカードとして揺さぶりをかけるという外交上の側面があった。また第二次東南アジア歴訪は、日本の向米一辺倒、大東亜共栄圏の再来といった懸念に対して、英連邦への配慮とコロンボ・プランを重視することで乗り切ろうとするものであった。1958年(昭和33年)4月25日、衆議院を解散。5月22日の第28回衆議院議員総選挙で、自民党は絶対安定多数となる287議席を獲得して勝利。6月12日に第57代内閣総理大臣へと就任し、第2次岸内閣が発足した。一方で、憲法改正に必要な3分の2の議席獲得には至らなかった。その後、警察官職務執行法(警職法)の改正案を出したが、社会党や総評を初めとして反対運動が高まり、「デートもできない警職法(デートも邪魔する警職法)」「『オイコラ警官』の再来」などとネガティブ・キャンペーンにさらされ、撤回に追い込まれた。その一方で、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」の改定交渉を進め、1960年(昭和35年)1月に全権団を率いて訪米。アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と大統領自身の訪日で合意。1月19日に新条約が調印された。新安保条約は、内乱に関する条項の削除、日米共同防衛の明文化(日本をアメリカ軍が守る代わりに、在日米軍への攻撃に対しても自衛隊と在日米軍が共同で防衛行動を行う)、在日米軍の配置・装備に対する両国政府の事前協議制度の設置など、安保条約を単にアメリカ軍に基地を提供する為の条約から、日米共同防衛を義務付けたより平等な条約に改正するものであった。また、マッカーサー駐日米大使、藤山愛一郎外相の3者間で協議、核持ち込みの密約をしたが、記録は作られなかった。新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾。また、締結前から改定により日本が戦争に巻き込まれる危険が増すという懸念や、在日米軍裁判権放棄密約から派生する在日米兵犯罪免責特権への批判により、反対運動が高まっていた。スターリン批判を受けて共産党を脱党した急進派学生が結成した共産主義者同盟(ブント)が主導する全日本学生自治会総連合(全学連)は、「安保を倒すか、ブントが倒れるか」を掲げ、総力を上げて、反安保闘争に取り組んだ。まだ第二次世界大戦終結から日が浅く、人々の「戦争」に対する拒否感が強かったことや東條内閣の閣僚であった岸首相本人への反感があったことも影響し、「安保は日本をアメリカの戦争に巻き込むもの(※在日米兵犯罪免責特権への批判もあり)」として、多くの市民が反対した。これに乗じて既成革新勢力である日本社会党や日本共産党は組織・支持団体を挙げて全力動員することで運動の高揚を図り、総評は国鉄労働者を中心に「安保反対」を掲げた時限ストを数波にわたり行ったが、全学連の国会突入戦術には表面的な立場をとり続けた。とりわけ共産党は「極左冒険主義の全学連」を批判。これに対し批判された当の全学連は、既成政党の穏健なデモ活動を「お焼香デモ」と非難した。4月26日、日米安全保障条約の批准阻止を求める全国学生自治会総連合主流派の関係者は国会議事堂周辺でデモを行い警官隊と衝突。学生18人と警察官10人が重傷を負った。以降も多くの重傷者を出しながらデモは行われた。5月19日には日本社会党議員を国会本議場に入れないようにして新条約案を強行採決し、続いて5月20日に衆議院本会議を通過した。委員会採決では、自民党は座り込みをする社会党議員を排除するため、右翼などから屈強な青年達を公設秘書として動員し、警官隊と共に社会党議員を追い出しての採決であった。これは、6月19日に予定されていたアイゼンハワー大統領訪日までに自然成立させようと採決を急いだものであった。本会議では社会党・民社党議員は欠席し、自民党からも強行採決への抗議として石橋湛山、河野一郎、松村謙三、三木武夫らが欠席、あるいは棄権した。その結果「民主主義の破壊である」として、一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲をデモ隊が連日取り囲み、闘争も次第に激化の一途をたどる。反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。岸は警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を使者に立て暴力団組長の会合に派遣。錦政会会長稲川角二、住吉会会長磧上義光やテキヤ大連合のリーダーで関東尾津組組長・尾津喜之助ら全員が手を貸すことに合意。さらに、岸自身が組織した木村篤太郎率いる新日本協議会、右翼の連合体である全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者も入った日本郷友会(旧軍の在郷軍人の集まり)の3つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請。博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。6月10日には東京国際空港(羽田空港)で、アイゼンハワー大統領訪日の日程を協議するため来日したジェイムズ・ハガティ大統領報道官(当時の報道表記は「ハガチー新聞係秘書」)が空港周辺に詰め掛けたデモ隊に迎えの車を包囲されて動けなくなり、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救出されるという事件が発生(ハガチー事件)。岸は「デモの参加者は限られている。都内の野球場や映画館は満員だし、銀座通りも平常と変わりない」「私は『声なき声』に耳を傾ける」と沈静化を図るが(いわゆるサイレント・マジョリティ発言)、東久邇・片山・石橋の3人の元首相が岸に退陣勧告をするに及んで事態は更に深刻化し、さらにアイゼンハワーの暗殺まで噂されたことでアイゼンハワーの訪日は中止となった。6月15日には、自由民主党からの支援を受けたヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、国会構内では警官隊とデモ隊の衝突により、学生で共産活動家の樺美智子が圧死する事故が発生。21時に開かれた国会敷地内での全学連抗議集会で訃報が報告されたことで、警察車両への放火等を行うなど一部の学生が暴徒化し、負傷学生約400人、逮捕者約200人、警察官負傷約300人に上った。6月16日午前1時30分、岸内閣は緊急臨時閣議声明を発し、その一方で自衛隊の治安出動を打診。東京近辺の各駐屯地では出動準備態勢が敷かれたが、石原幹市郎国家公安委員会委員長が反対し、赤城防衛庁長官も「自衛隊に同胞を傷つける命令は出せない」と出動要請を拒否したため、「自衛隊初の治安維持出動」は回避された。安保反対デモは最高潮に達し、岸は警察からの退避要請を受けるが、「ここが危ないというならどこが安全だというのか。官邸は首相の本丸だ。本丸で討ち死にするなら男子の本懐じゃないか」「俺は殺されようが動かない。覚悟はできている」と拒絶して、群衆に囲まれた総理大臣官邸に実弟の佐藤栄作と共に留まった。条約は参議院の議決がないまま、6月19日午前0時をもって条約は自然承認され、6月23日の批准書交換をもって発効した。同日、混乱を収拾するため、責任をとる形で総辞職を表明した。7月14日、後継首班に池田勇人が指名された直後、岸は暴漢に刺されて重傷を負った。犯人は戦前に右翼団体大化会に属していた荒牧退助で、その後は大野伴睦の院外団にいた。岸側近の小川半次は、岸が大野への禅譲を匂わせながら池田が後継となったことへの憤激が動機であるとする。荒牧は、樺美智子とその父親への同情が動機であり、美智子の死亡後に俊雄と面会したことがあったという。しかし、「岸に反省をうながす意味でやった」と供述して岸への殺意や大野との背後関係は否定している。7月15日、岸内閣は総辞職した。岸は「私のやったことは歴史が判断してくれる」「安保改定が国民にきちんと理解されるには50年はかかるだろう」という言葉を残している。1962年(昭和37年)10月30日、自らの派閥「十日会(岸派)」の解散を宣言した。1967年(昭和42年)、勲一等旭日桐花大綬章を受章。首相退陣後も政界に強い影響力を保持し、日韓国交回復にも強く関与した。時の韓国大統領朴正煕もまた満洲国軍将校として満洲国と関わりを持ったことがあり、岸は椎名悦三郎・瀬島龍三・笹川良一・児玉誉士夫ら満洲人脈を形成し、日韓国交回復後には日韓協力委員会を組織した。岸は韓国政界に強い影響力を持っており、大韓民国中央情報部(KCIA)元部長の金炯旭も「韓日癒着の日本側の中核は岸信介」であったと評価している。1963年(昭和38年)の大統領選挙以来、朴正煕政権を支えたのは日本の自民党勢力からの政治資金であった。この背景には東西冷戦下の安全保障戦略の拠点として韓国を位置付ける極東戦略の一部として、日本側に負担を担わせる米国政府側の思惑があったとされる。また、金炯旭によれば、岸は韓国への円借款供与と鉄道建設に関連する汚職に関与している。1960年代当時、韓国の交通問題を解決するために地下鉄建設や鉄道電化工事が計画されていたが、受注を巡り、欧州と日本の企業連合間で激しい競争があり、三菱商事、三井物産、日商岩井、丸紅などの大手商社が、朴正煕と関係の深い岸を前面に立てて、韓国政界への働きかけを熱心に行った。1971年(昭和46年)8月の「日韓閣僚会議」で、ソウル地下鉄建設に対する円借款供与が合意され、これが決め手となって1973年(昭和48年)日本の商社連合がソウル地下鉄車両186両に対する売買契約に成功した。商社連合は多額の利益をペーパーカンパニーを経由するなどの複雑なルートで、リベートとして韓国政界に還流させ、その多額の資金は朴正煕政権の維持基盤となった。一方で、1960年代後半から統一教会(現在の世界平和統一家庭連合)と関係を深める。最初に統一教会と接点を持ったのは、岸の出身地である田布施町を中心に布教活動を行っていた天照皇大神宮教(通称:踊る宗教)の教祖の北村サヨを介してのことだと伝えられている。1964年(昭和39年)7月15日、宗教法人の認可を受けた統一教会は、11月1日に教団本部を世田谷区代沢5丁目から渋谷区南平台町45番地(当時の番地)の隣地(500坪)に移転。このため統一協会の信者が隣同士になった岸の私邸を訪れるようになり、教団との密接な関係が生まれた。教団本部が1965年(昭和40年)8月23日に渋谷区松濤1丁目に移転してからも、岸は頻繁に統一教会の本部を訪れ、そこで教団が招いた韓国の国会議員や大学教授と面会することもあった。1968年(昭和43年)1月に統一教会教祖の文鮮明は大韓民国中央情報部(KCIA)の指示を受け、国際勝共連合を韓国で設立。次いで同年4月1日、岸は文、笹川良一、児玉誉士夫らと協力して、日本でも国際勝共連合を設立した。1969年(昭和44年)春、「自主憲法制定国民会議」(現在の新しい憲法をつくる国民会議)を立ち上げ、初代会長に就任。1970年(昭和45年)9月20日、「世界反共連盟(現在の世界自由民主連盟)世界大会」が武道館で開催され、岸は大会推進委員長を務めた。同年10月21日、ソウルで開催された統一教会の合同結婚式(777双)に祝辞を送った。1973年(昭和48年)11月23日、文鮮明・韓鶴子夫妻と日本の統一教会本部で長時間会談し、意見交換をした。1974年(昭和49年)5月7日、第1回「希望の日晩餐会」が帝国ホテルで開催され、岸は名誉実行委員長を務めた。1976年(昭和51年)12月17日、第2回「希望の日晩餐会」が帝国ホテルで開催。第1回と同様、名誉実行委員長を務めた。1979年(昭和54年)、高齢を理由に政界を引退。しかし、引退後も後継者の福田赳夫などを通じて自民党右派の象徴として政界に影響力を行使し続けた。1984年(昭和59年)4月18日、自民党・民社党の議員と保守系財界人らが「スパイ防止法のための法律制定促進議員・有識者懇談会」を設立。岸は会長に就任した。1984年(昭和59年)11月20日から22日にかけて、文鮮明主催の第7回「世界言論人会議」が東京のホテルニューオータニで開催。岸は同会議で名誉議長としてスピーチした。同年11月26日、米国で脱税被疑により投獄されていた文鮮明の釈放を求める意見書をレーガン大統領(当時)に連名で送った。1987年(昭和62年) 8月7日、入院先の東京医大病院で死去。享年90。没後、大勲位菊花大綬章を追贈された。


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晩年「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介。戦前の満州官吏からA級戦犯となり、巣鴨プリズンに3年拘束。戦後、公職追放が解除されると、たった4年で日本の宰相にまで上り詰めた。特に、大規模な反対の嵐の中で日米安保改定を成立させ、日本史において大きな転換点をもたらした。政界引退後も、後継者の福田赳夫などを通じて政界に影響を及ぼし続け、その一方で統一教会との関わりを深めていった。この統一教会との繋がりが、今になって大きな影響をもたらすことになってしまうとは、当の本人は生前思いもしなかったであろう。「A級戦犯」容疑者として逮捕され、安保闘争でデモ隊に包囲され、暴漢に刺されるなど、何度も死の直面に遭いながら、90歳の大往生を遂げた岸信介の墓は、山口県田布施町と静岡県駿東郡の冨士霊園にある。後者の墓には「岸家」とあり、右側に墓誌が建つ。戒名は、秀鳳院殿信誉蘭芳箕山大居士。

by oku-taka | 2024-01-29 23:01 | 政治家・外交官 | Comments(0)