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本田宗一郎(1906~1991)

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本田 宗一郎(ほんだ そういちろう)

技術者
1906年(明治39年)〜1991年(平成3年)

1906年(明治39年)、静岡県磐田郡光明村(現在の浜松市天竜区)に生まれる。光明村立山東尋常小学校(現在の浜松市立光明小学校)在校中に自動車を初めて目にしたほか、アート・スミスの曲芸飛行を見学するため、遠く離れた浜松町和地山練兵場まで自転車を三角乗りで訪れ、飛行機を初めて目にしている。1922年(大正11年)、二俣町立二俣尋常高等小学校(現在の浜松市立二俣小学校)を卒業。東京市本郷区湯島(現在の東京都文京区湯島)の自動車修理工場「アート商会」(現在のアート金属工業)へ丁稚奉公に出される。1928年(昭和3年)、のれん分けの形で浜松市にアート商会浜松支店を設立して独立。1936年(昭和11年)、全日本自動車競走大会(多摩川スピードウェイの第1回大会)に、フォードに自作のターボチャージャーをつけたレース用車両(ハママツ号)で弟とともに出場するが事故により負傷し、リタイアを喫する。1937年(昭和12年)、自動車修理工場事業を順調に拡大するとともに、「東海精機重工業株式会社」(現在の東海精機株式会社)の社長に就任。エンジンに欠くべからざる部品としてピストンリングに目をつけるが、経験からだけではどうにもならない学問的な壁に突き当たり、浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)機械科の聴講生となり、3年間金属工学の研究に費やす。1939年(昭和14年)、アート商会浜松支店を従業員の川島末男に譲渡し、東海精機重工業の経営に専念する。1942年(昭和17年)、豊田自動織機が東海精機重工業に出資し、自らは専務に退く。1945年(昭和20年)、三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒壊。所有していた東海精機重工業の全株を豊田自動織機に売却して退社。「人間休業」と称して1年間の休養に入る。終戦直後は何も事業をせず、土地や株を売却した資金で合成酒を作ったり、製塩機を作って海水から塩を作り米と交換したりして「遊んで」いたという。しかしこの時期に、苦労して買い出しをしていた妻の自転車に「エンジンをつけたら買い出しが楽になる」と思いつき、後に二輪車の研究へとつながっていく。1946年(昭和21年)10月、浜松市に本田技術研究所 (旧) を設立し、所長に就任。内燃機関および各種工作機械の製造と研究を開始。10月には、旧陸軍無線用発電機を改造した空冷2サイクルエンジンを発売。これにヒントを得て、バタバタと音を立てて走るバイクモーターを製造。ガソリンが満足に手に入らない時代に、車より燃費がよく、車に比べて安く手に入る事から、全国から買い手が殺到するほど飛ぶように売れる。あまりの需要に製造ではなく払い下げエンジンの買い占めに奔走することが多くなり、やがてエンジンが品薄になったことから、1947年(昭和22年)、自社設計第1号製品「A型自転車用補助エンジン」の生産を開始。これもヒットし、手応えを感じたことから、1948年(昭和23年)に本田技研工業株式会社を浜松に設立し、代表取締役に就任。資本金100万、従業員20人でスタートした同社で、原動機付き自転車を考案して二輪車の研究を始める。しかし、次々に製造したバイクが、焼きつき、走らない、すぐ壊れる等のクレームが殺到し、ホンダのブランド価値は地に落ちてしまう。また、当時はバイク屋に買い取ってもらってバイク屋が売る買取制ではなく後払いが基本だったうえに、経営知識が皆無だった本田は、踏み倒し等で代金の回収が上手く行かず、社員の給料もまともに払えないほどの窮地を迎えてしまう。1949年(昭和24年)、後にホンダの副社長となる藤沢武夫と出会い、藤沢は経営担当として同社に参加。藤沢は、東京進出、販路の拡大、買取制度の導入、工場の拡張、親族の入社禁止、マン島TTレースへの参加表明といった攻めの経営を打ち出し、本田と共にホンダを世界的な大企業に育て上げていく。同年、初の自社設計フレームに98cc 2ストローク単気筒エンジンを搭載したドリーム号D型の生産を開始。1952年(昭和27年)、自転車用エンジンを搭載したカブF型を発売。全国5,000を超える自転車販売店にダイレクトメールを送り販売網を確立した。同年、藍綬褒章を受章。1953年(昭和28年)、東京・八重洲に社屋を建設し、浜松から東京に本社を移転。また、埼玉・大和工場、浜松工場を開設した。1955年(昭和30年)、二輪車の生産台数日本一を達成。1958年(昭和33年)、スーパーカブC100を発売。使い勝手の良さ、頑丈さ、速さが好評となり、翌年には40万台を越える大ヒット。海外への輸出も始まると500万台、1000万台、1500万台とそれまでの何倍もの売上をもたらすことになり、世界一のメーカーへと駆け上がって行く契機となった。1959年(昭和34年)、米国現地法人「アメリカン・ホンダ・モーター」をロサンゼルスに設立。1960年(昭和35年)、研究開発部門を分離した「株式会社本田技術研究所」を設立。また、白井孝夫をリーダーとして建設した鈴鹿製作所を開設した。1961年(昭和36年)、当時の西ドイツに「ヨーロピアン・ホンダ・モーター」を設立。同年、藤沢とともに財団法人「作行会」を設立。若手研究者や学生に対して匿名で奨学金を交付した。1962年(昭和37年)、四輪車への進出の意向を表明。1963年(昭和38年)8月、ホンダ初の四輪車である軽トラックT360を発売。また、8月2日のドイツGP(ニュルブルクリンク)でF1に初参戦となった。9月、S500を発売。このほか、日本自動車産業界初の日本国外の生産工場としてベルギーに小型オートバイの組立工場「ベルギー・ホンダ・モーター」を開設して二輪車生産開始し、ホンダ鋳造(現在の本田金属技術)も設立した。1965年(昭和40年)、イギリスに販売拠点「Honda UK」を設立。同年、リッチー・ギンサーがホンダのF1と契約。彼は全戦出場し、最終戦の第10戦メキシコGPで自身・ホンダ・グッドイヤーとも初となる優勝を果たした。1967年(昭和42年)、ジョン・サーティースがチームに加入。彼はホンダのマシンで優勝1回、3位1回と2回表彰台に昇り20ポイントを獲得、コンストラクターズランキング4位につけた。特に優勝したイタリアGPは2位のジャック・ブラバムに対してわずか0.2秒差での勝利で、この年の成績が第1期ホンダの最高成績となった。1968年(昭和43年)、本田が固執していた空冷エンジン(V型8気筒)を搭載したRA302が制作され、この年のフランスGPに持ち込まれたが、スポット参戦でドライブしたジョー・シュレッサーが炎上死する悲劇に見舞われた。この事故の後、ホンダはF1を撤退するのではないかとささやかれ始め、この頃社会問題になっていた大気汚染に対する市販車用低公害型エンジンの開発を理由として、シーズン終了後にF1参戦の一時休止を宣言した。1969年(昭和44年)、量産二輪車初の並列4気筒エンジンを搭載したドリーム CB750 FOURを発売。世界で初めて最高時速200km/hを突破し、今までにない数々の斬新なメカで、名実と共に世界一のバイクメーカーとなる。しかし、本田は空冷エンジンに固執しており、中村良夫(後のホンダF1チーム監督)が企画したホンダ・シビックが却下され、本田の推す空冷エンジン搭載のホンダ・1300が企画が通るなど、「走る実験室」と呼ばれたF1だけでなく市販車にまで技術的に限界のある空冷で押し通そうとした。本田の理工学的な無理解、そして開発において強大な権限が本田にあって、決定が下されると技術者はそれに従うしかない状況に嫌気がさした中村は一旦辞めることを決心したが、河島喜好ら役員の「本田宗一郎はもうすぐ引退させるから」と慰留されている。空冷エンジンは、水冷エンジンでいうところの「ウォータージャケット」に類似した構造を空冷エンジンに導入したもので、シリンダーブロックの外壁を「一体」鋳造成型で二重構造にし、その間の空間を冷却風の通り道とした。そこに強制冷却ファンで風を送り込むと同時に、エンジンの外側にも風があたるようにして冷却をする構造である。その構造ゆえに重量も嵩み、オールアルミ製のエンジンにもかかわらず、エンジン単体の整備重量だけで180kgに達したこのエンジンは、空冷のメリットである「軽さ」が完全に打ち消されてしまうという結果となった。また、フロントヘビーな重量配分はハンドリングにも悪影響を及ぼした。このエンジンを搭載した1300は商業的に失敗を喫し、販売不振に悩まされていた1970年(昭和45年)頃には、本田と若手技術者たちの間でエンジンの冷却方法について激しく対立するようになる。内燃機関では、熱は集中的に発生する。伝熱特性の良い液体に一旦熱を移し、ラジエータの広い面積から熱を捨てるという構造は合理的であり、若手を中心として技術者たちは「水冷のほうがエンジン各部の温度を制御しやすい」と主張した。しかし、本田は「エンジンを水で冷やしても、その水を空気で冷やすのだから、最初からエンジンを空気で冷やしたほうが無駄がない」として頑として譲らなかった。両者は激しくぶつかり合い、当時技術者であった久米是志(後の3代目社長)が辞表を残して出社拒否をしたほどであった。技術者達は副社長の藤沢武夫に、あくまで空冷にこだわる本田の説得を依頼し、藤沢は電話で本田に「あなたは社長なのか技術者なのか、どちらなんだ?」と問いただした。設立以来、経営を担ってきた他でもない藤沢のこの言葉に本田は折れ、ようやく若手技術者たちの主張を認めた。そして、1300の生産中止と共に1971年(昭和46年)の初代ライフを皮切りに、初代シビック、145と水冷エンジン搭載車が次々とホンダから送り出されるようになり、本田が執念を燃やした空冷エンジン乗用車はホンダのラインナップから消滅した。1972年(昭和47年)、低公害車用「CVCCエンジン」の開発に成功。米の大気浄化法案(マスキー法75年度規制)を世界の自動車メーカーに先駆けて達成した。1973年(昭和48年)、「自分には技術が分からなくなったのかもしれない」と思い、社長退任を発表。中華人民共和国を訪れた帰国直後の会見で、本田技研工業社長を退き、取締役最高顧問に就任することを発表。藤沢も追従して副社長を退任。両名は取締役最高顧問に就任した。退任後は銀座に「本田事務所」を開き、この事務所を拠点にして、全国のホンダの販売店、工場、営業所の社員たちへの「お礼行脚」を開始。綿密なスケジュールを組み、ヘリコプターと車を併用し、秘書一人を連れ、2年半にわたって行われた。1981年(昭和56年) 、勲一等瑞宝章を受章。1983年(昭和58年) 、取締役も退き、終身最高顧問となる。1989年(平成元年)、アジア人初のアメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果たす。晩年は糖尿病や脳血栓症といった病気を患い、入退院を繰り返す日々を送る。1991年(平成3年)には末期癌を宣告され、8月5日午前10時43分、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で肝不全のため死去。享年84。


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小さな町工場を一代で世界的な企業に育て上げた本田宗一郎。妻のために作ったエンジン付自転車から始まったモノづくりは、オートバイ、自動車生産へと拡大。「ホンダ」は世界屈指の自動車メーカーへと成長し、社長の宗一郎は多くの社員から「オヤジ」と慕われた。その反面、技術のことになると短気っぷりが炸裂し、殴られた、工具が飛んできた、などのエピソードも数多くある。技術者としての晩年は空冷エンジンにこだわり、当時の若き技術者たちと激しく格闘。社長退任までモノづくりへの熱い魂を燃やし続けた本田宗一郎の墓は、静岡県駿東郡の冨士霊園にある。墓には「本田」とあり、背面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2024-01-21 22:41 | 経済・技術者 | Comments(0)