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風戸裕(1949~1974)

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風戸 裕(かざと ひろし)

レーシングドライバー
1949年(昭和24年)〜1974年(昭和49年)

1949年(昭和24年)、当時電子顕微鏡技術において最先端を行き、世界中から大きな評価を得たことで知られる日本電子光学研究所(JEOL)創立者・風戸健二の次男として、千葉県茂原市に生まれる。成蹊高等学校1年生のとき、兄がオートバイに乗り始めた。自らも購入を希望したが、後に兄がオートバイで事故を起こし、その後スポーティな車に乗っていたことから、家族会議にて「オートバイは却下。自動車なら少しは安全だろう」となり、1965年(昭和40年)軽免許を取得。1966年(昭和41年)にはマツダ・キャロルを買ってもらう。その後、車を持つ仲間とのつきあいを深め、誘われて「マッドドラッカーズ」というチームに参加。マツダ・キャロルにチューニングを施し、ジムカーナに4戦ほど参戦。優勝2回に2位1回の成績を収める。シーズン以外は空いている大磯ロングビーチの駐車場などで、円錐形のパイロンを並べて、一定距離のコースをどれだけ早くすり抜けてゴールするかの腕を競い、モータースポーツの虜となる。1967年(昭和42年)、18歳になるとすぐに普通免許を取得し、ホンダ・S800を購入。さらにその一ヶ月後にA級ライセンスを取得した。そしてこの1ヵ月後に行われた第4回日本グランプリを観戦し、ニッサンワークスの高橋国光の日産・R380と、プライベート出場の生沢徹のポルシェ・906が激しく争い、生沢が優勝した姿を目の当たりにし、このことに大きく触発された風戸は、それから僅か11日後の5月13日-14日に船橋サーキットで行われた日刊スポーツJr.チャンピオンレースに出場。自身のホンダ・S800でデビューし、2位入賞を遂げた。8月には富士スピードウェイの全日本自動車レースにもデビュー。1968年(昭和43年)、成蹊大学経済学部に入学。レース活動も本格化させ、2月11日の富士チャンピオンレース第2戦では3位入賞となったが、3月23日-24日の第10回日本スポーツカー富士300キロレース大会では29台中23位、5月3日の'68日本グランプリの前座GTレースでは一時クラストップを走る健闘を見せるが最終的には4位フィニッシュ、8月24日-25日の第3回富士ツーリスト・トロフィー・レース大会では初のリタイアを喫するなど、行き詰まりをみせる。この頃、神山モータースを営む神山政靖と出会い、神山にチューンを申し込み。9月のダイヤモンド・トロフィーでは総合5位でクラス優勝を遂げ、クラス別富士チャンピオンレースシリーズには12戦中5戦に出場、10月2位、11月3位、12月3位と確実にポイントを上げ、年間3位で表彰された。1969年(昭和44年)、それまで使っていたホンダ・S800から、マシンの面倒を見てくれていた神山モータース経由で、鈴鹿サーキットが放出したブラバムBT16を購入。同年5月に行われたJAFグランプリのメインレースに出場し、1000cc以下クラスで2位、総合7位に食い込む健闘を見せた。また、最も賢い走りをしたドライバーと優れたマシンおよび耐久性の高いエンジンの組み合わせに贈られる「性能指数賞」と、賞金14万円も獲得した。その後、フォーミュラを改造し、グループ7カーをやりたいという希望を出し、ブラバム・ホンダBT16で富士300キロレース大会に出場し5台中2位。後に神山からタキレーシングのリーダー・田中健二郎を紹介され、タキレーシングに所属。ポルシェ・910でJAFグランプリレース大会、NETスピードカップレースとJAF公認レース全8レースに出場。10月10日の日本グランプリでは長谷川弘と組み、総合8位・クラス優勝。11月3日の富士スピードフェスティバル富士300キロレース大会'69ゴールデンシリーズでは、2位以下に4周差をつけての初の総合優勝となった。1970年(昭和45年)1月15日、鈴鹿300kmにポルシェ・910で出場し2位・クラス優勝。続く3月8日の全日本鈴鹿自動車レースでは、3周目でトップに立って25周を走りぬき、フォードGT40を押さえ、高橋国光のスカイラインGTRを周回遅れにして総合優勝を果たした。3月22日、全日本ストッカー富士300に出場して優勝。4月1日-4月5日の全日本鈴鹿500km自動車レースでも総合優勝するなど勝利を重ね、「成蹊大学に在籍する学生チャンピオン」と評された。しかし、タキレーシングがシーズン途中で活動を中止。それに伴い、風戸レーシングリミテッド設立。 レースをビジネスとしてスポンサーの資金を導入し、ドイツのシュツットガルトでポルシェ908MkⅡを購入した。一方、6月14日に東京クラブ連合レースシリーズ2にRQアウグスタで出場し優勝。8月9日にはNETスピードカップレース、NETマキシカップレース(B)にマツダ・プレストロータリークーペM10Aで出場し優勝した。1971年(昭和46年)、アメリカのカナディアン-アメリカン・チャレンジカップに日本人として初参戦。ドライバーの頂点としてフォーミュラカーによるF1レースを最終目標としていたが、そこへ至る方法として、ビッグマシンのカナディアン-アメリカン・チャレンジカップで腕と精神・体力を鍛えてからF2に進もうと決断し、整備担当の猪瀬良一からシカゴのマシン・ローラの社長カール・ハースに相談。ハースは風戸がポルシェ908MkⅡで参戦すると聞くと、「ポルシェでやるのは金もパーツも大変だ。ローラでやったほうがずっと楽だよ」と言ったことから、ローラT222を購入した。その結果、第1戦は9位でフィニッシュとなり、1500ドル(約54万円)を獲得した。次ぐ第2戦では6位に入ったが、第3戦はリタイア、第4戦は10位と芳しくない成績が続いたが、第6戦では5位となり、シーズンを通して総合10位となった。同年、富士グランチャンピオンレース(富士GC)にポルシェ・908/2で参戦を始め、 10月10日の富士GCでは、生沢徹のポルシェ・917Kを下し優勝。これが富士GCにおける初優勝となった。しかし、動きがシビアなフォーミュラに備えるべく、ローラT222とポルシェ908MkⅡを売却。マーチとヨーロッパF2シートの契約交渉を行うが、同じく交渉に来ていたニキ・ラウダに破れる。しかし、1972年(昭和47年)にマーチのセミ・ワークスチームより、前年のチャンピオンマシンであるマーチ722・Fordで出場が決定。この年はヨーロッパでの活動に専念し、年間ランキング24位となった。1973年(昭和48年)、新たな体制として、自らのマシンをメンテナンスするために山梨信輔と共にノバエンジニアリングを設立。国内では富士GCシリーズに(GRD-S73・Ford&三菱,シェブロンB23・BMWなどで)参戦し、シリーズランキング3位。10月10日の富士GCシリーズ第4戦では、富士マスターズ250キロレースにシェブロンB23・BMWにて出場し優勝。一方、海外においてはチーム・ニッポンとしてヨーロッパF2にGRD・Ford&シュニッツァーBMWで参戦し、年間ランキング21位。4月23日のスラクストン(英)において生沢徹とヨーロッパF2にて初対決するも両者リタイアとなり、4月29日のニュルブルクリンク(独)において再び生沢徹と相まみえ、風戸は9位、生沢は13位となった。また、シグマ・オートモーティブがシグマ・MC73で参戦を計画していたル・マン24時間レースに参加を打診するが、実現しなかった。1974年(昭和49年)、シェブロンのワークスチームに加入し、ナンバー2ドライバーとしてヨーロッパF2に参戦することが決定。6月2日、富士GC・第2戦にシェブロンB26・BMWで出場。2ヒート目のスタート直後、直線後半部分で、2番手争いをしていた黒澤元治と北野元のマシン同士が数回接触。その果てに北野はコースから弾き出され、コース脇のダート部分に足を取られコントロール不能に陥った。北野は前方に風戸、後方に鈴木誠一の間を横切る形でそれぞれの左側に接触、風戸は左巻きにスピン、当時グランドスタンド前に設置されていたガードレールを寸断し信号灯に激突。鈴木は右巻きにスピンしリア部分からガードレールの支柱に一直線に突っ込んでいった。その後何度かの衝突や横転を繰り返した後、ガソリンタンクが破裂し二台は一瞬のうちに炎に包まれ、二人は必死の消火も虚しく焼死した。死亡時、風戸は25歳だった。この富士GCの終了後にシェブロンワークスドライバーとしてのヨーロッパF2出場が予定されていたが、その直前に無念の死を遂げた。この事故、および前年の中野雅晴が亡くなった事故が契機になり、富士スピードウェイの30度バンクは危険だとして使用されなくなった。


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通算成績が全カテゴリーを含めて55戦8勝、その活躍っぷりから「F1に最も近い男」と呼ばれた風戸裕。親に買い与えられたマツダ・キャロルでモータースポーツに参加。勝利を味わうことでその世界に魅せられ、一躍トップドライバーの仲間入りを果たすまでに成長した。ヨーロッパF2にシェブロンのワークスドライバーとして参戦する直前、壮絶な事故に巻き込まれて命を落とした風戸裕の墓は、富士スピードウェイの轟音が響く静岡県駿東郡の冨士霊園にある。墓域には2基の墓があり、右側に「アブラハム 風戸裕」と刻まれた洋型の墓が建つ。また、右側に略歴と戦歴が刻まれた記念碑と、知人から送られた追悼の碑が建立されている。

by oku-taka | 2024-01-17 01:11 | スポーツ | Comments(0)