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根津甚八(1947~2016)

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根津 甚八(ねづ じんぱち)

俳優
1947年(昭和22年)〜2016年(平成28年)

1947年(昭和22年)、山梨県谷村町(現在の都留市)に生まれる。本名は、根津 透(ねづ とおる)。一家は親戚の家に居候していたが、小学3年時に神奈川県川崎市へ転居。ここでは山梨弁を笑われ馴染むことが出来なかった。両親は教育熱心で、中学は東京の田園調布中学に越境入学。高校は当時赤坂にあった日大三高に進学。在学時から演劇に興味を持ち、進学した獨協大学を二年で中退。1969年(昭和44年)、唐十郎が主宰する状況劇場に入団。このとき、主宰の唐十郎が苗字の「根津」に合わせて、真田十勇士の根津甚八から取って芸名を命名した。1970年(昭和45年)、舞台『ジョン・シルバー 愛の乞食篇』でデビュー。1974年(昭和49年)、『唐版 風の又三郎』で主役を務め、以降、同劇団の看板俳優となる。1975年(昭和50年)、テレビドラマ『娘たちの四季』に出演。主役だった中野良子が『唐版 風の又三郎』を観て、根津に惚れ込み熱烈にオファーしたもので、劇団以外の仕事は初めてだったことから唐に相談したところ「俺たちはずっと外へ出てゆかずにやるけど、お前は外でやってもいいよ」と言われ、途方もない疎外感に襲われ、精神的に唐と大きな溝が出来た。このドラマ出演によって、全国の女性ファンからファンレターが山積みの事態となった。1978年(昭和53年)、NHK大河ドラマ『黄金の日日』に石川五右衛門役で出演して注目される。劇団に根津ファンの若い女性が押し寄せるようになり、劇団に居づらくなったことから、1979年(昭和54年)に退団。 その後、黒澤明監督作品や『駅 STATION』など多数の作品で活躍。1982年(昭和57年)には『さらば愛しき大地』でキネマ旬報賞主演男優賞と日本アカデミー賞優秀主演男優賞、『この子の七つのお祝いに』で日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞した。2001年(平成13年)頃、右目の不調を発症。6度の手術を受けたが、そのせいで右目のまぶたが垂れ下がる右目下直筋肥大という顔面の病気を発症。後遺症に悩まされ、次第に活動を縮小させた。2004年(平成16年)7月、交通事故を起こし、被害者を死亡させた。警察の調べに対し、「安全確認が足りなかった」と供述した。その後しばらくの間活動を休止していたが、2006年(平成18年)5月よりブログを開始した。2009年(平成21年)、雑誌『週刊現代』8月22・29日合併号に掲載された夫人の手記において、根津がうつ病を患っていることが明らかにされた。持病の椎間板ヘルニアも悪化しており、療養生活を送っていた。2010年(平成22年)9月、俳優業の引退を公表。演出家や脚本家としての活動は行うが、テレビ出演など表舞台には立たないとした。2015年(平成28年)、石井隆監督の要望に応え、映画『GONIN サーガ』に出演。根津が演じる元刑事の氷頭要は、前作のラストで銃に撃たれて誰もが死んだものと思ったが、生きていたという設定にして続編を計画。何度も自宅に足を運んで説得する石井に「本をじっくり読んで、これなら今の自分にできるという気持ちが湧いてきた」と一度限りの銀幕復帰を果たした。亡くなる数ヶ月前に腎臓を悪くして入院。その後、肺炎が悪化し、2016年(平成28年)12月29日、深部静脈血栓症及び肺塞栓症による肺炎のため東京都内の病院で死去。享年69。


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憂いのある演技と独特の存在感で魅了した根津甚八。強い意志を秘めた寡黙な役柄を得意とし、特にNHK大河ドラマ『黄金の日日』では、石川五右衛門役の生き様と壮絶な最期を見事に演じ、一躍人気俳優となった。個人的には、同じNHKで放送された『男たちの旅路』で、マネージャーの言いなりになってヒット曲を歌い続ける男の葛藤を描いた「墓場の島」回での演技が印象深い。また、歌手としても活動しており、その退廃的な歌声による中島みゆき作品の『ピエロ』、阿久悠作品の『旅人の唄』はまさに絶品であった。クールでニヒルな役者・根津甚八の墓は、静岡県駿東郡の冨士霊園にある。墓には「根津甚八」と流れ星が、香立てに「JINPACHI NEZU」と彫られており、左側に墓誌が建つ。戒名は「天映甚八居士」。

by oku-taka | 2023-12-21 11:32 | 俳優・女優 | Comments(0)