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たてかべ和也(1934~2015)

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たてかべ 和也(たてかべ かずや)

声優
1934年(昭和9年)〜2015年(平成27年)

1934年(昭和9年)、北海道虻田郡喜茂別町に生まれる。本名は、立壁 和也。父は胆振縦貫鉄道に勤めていたが、身体が弱く仕事を続けられないこともあり、1942年(昭和17年)に東京都世田谷区下北沢に転居。言葉に少し北海道訛りがあり、いじめを受ける。戦後は東京都世田谷区立代沢国民学校(現在の世田谷区立代沢小学校)に通い、学校から帰ると野球に熱中。第1期生として東京教育大学附属駒場中学校(現在の筑波大学附属駒場中学校)に入学後も野球に熱中していた。同高等学校時代に「人手が足りないから出てくれないか」と頼まれて演劇部の公演『アルト・ハイデルベルク』のユトナー博士役で参加。しかし、何事にも縛られることが嫌いだったことから演劇部に入っていなかった。その後、演劇学科だったらなんとなく遊べるような印象があったため、日本大学芸術学部演劇学科に進学。同大学卒業後、テレビプロデューサーを目指し、北海道から九州まで数々の放送会社の就職試験を受けるも全て落ち、日本テレビの大道具係をしていた。勤務の傍ら、大学時代の同級生だった田中康郎と組んで劇団演劇座を結成し、『毒薬と老嬢』を北海道札幌市まで公演をしていた。そのとき、大学時代の同級生の小林から「俺たちの劇団に来ないか」と言われて、劇団泉座に入団。泉座は中華人民共和国の芝居を結構していたが、イデオロギー優先のものがほとんとで、『毛沢東語録』を読んで勉強するような面白くない芝居ばかりだったが、「やらないか」と言われたことから「じゃあやってみるか」ぐらいの気持ちで舞台には立っていた。テレビ放送が開始すると、洋画の吹き替えに出演。声優としての活動を始める。その後、演劇集団未踏、東京俳優生活協同組合、河の会、江崎プロダクションと所属。俳協時代は吹き替え以外にも、映りの仕事、ラジオの仕事があったが、どれも名前もない端役だった。1962年(昭和37年)頃からテレビにも出るようになり、NHK『若い季節』や『赤穂浪士』などに出演した。1972年(昭和47年)、『ど根性ガエル』(第1作)の五利良イモ太郎(ゴリライモ)役を担当。以降、『はじめ人間ギャートルズ』のドテチン役、『ヤッターマン』のトンズラー役など、いかついキャラクターの声を多く務める。1979年(昭和54年)、『ドラえもん』(テレビ朝日版第1期)の剛田武(ジャイアン)役を担当。以来26年間務め、作品人気の一翼を担った。同年、事務所のマネージャーとちょっとしたボタンの掛け違いのようなことがあり、当初はズレを感じている程度かと思ったが、気が付くと、同じような疑問を感じている人物が周囲にもいたことから、事務所「オフィス央」を立ち上げ、社長職と声優を兼務する。当初は役者をしながらマネージャーをするという気持ちはなく、マネージャーのようなことをして皆を売ろうとしていたが、タイムボカンシリーズや『ドラえもん』もあったことからやらざるを得なかった。しかし、事務所に圧力がかかってくるようなこともあったため、「このままでは厳しい」と思い、1984年(昭和59年)にぷろだくしょんバオバブへ吸収合併された。ぷろだくしょんバオバブに所属していた頃は、「合併が失敗だったとみんなが思ってしまうようなことになってはいけない」と思い、「『ドラえもん』だけはやめるわけにはいかないけど、ほかの仕事はやらなくていいから」と言われたこともあって、マネージャー業も務めた。また、常務取締役として矢島晶子、水谷優子、折笠愛、水田わさびらを見出し、スカウト力にも長けていた。特に矢島には、デビュー作にして主演の『アイドル伝説えり子』を斡旋し、『クレヨンしんちゃん』も「園児の1人くらいは受かるかもしれない」とオーディションを斡旋した。また、高木渉も一回だけの予定で見学に行った『ミスター味っ子』の収録現場で、たてかべから「来週は来ないのか?」「1日だけの見学で何がわかる。やる気があるなら最後まで来なさい」と言われ毎週見学に行くようになり、それが1年半の見学通いとなった。そこから高木はガヤを演らせてもらえるようになり、脇役でのデビューに繋がったという。2005年(平成17年)3月、キャストの高齢化による総入れ替えに伴い、『ドラえもん』を卒業。同年、第14回日本映画批評家大賞で『ドラえもん』のレギュラー陣(大山のぶ代、小原乃梨子、野村道子、肝付兼太の4人)とともに田山力哉賞を受賞。さらに、2006年(平成18年)11月の第11回アニメーション神戸で、同じくオリジナルレギュラー陣4人とともに特別賞を受賞。2007年(平成17年)3月には東京国際アニメフェア2007で、同じくオリジナルレギュラー陣4人と共に第3回功労賞を受賞した。2009年(平成21年)、胃癌を患い胃を全摘出。この癌までは大病が無く、一度も入院した経験もなかったため、当時レギュラーだった『ヤッターマン』のトンズラー役をやりきることを治療の際にこだわった。手術後は体調が振るわない状況が続いたが、それでも杖を突きながら仕事をこなしたり、活動自体は緩やかに継続していた。しかし、呼吸器系が特に弱っていったようで、体調も緩やかに落ちていったという。 亡くなる3日前まで声優仲間と談笑するなど元気だったが体調を崩し、2015年(平成27年)6月18日午後1時49分、急性呼吸不全のため東京都内の病院で死去。享年80。


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26年にわたって『ドラえもん』のジャイアン役を務めた、たてかべ和也。「お前の物は俺の物、俺の物も俺の物」「心の友よ!」といったお馴染みのジャイアンフレーズは、たてかべの声によってお茶の間に広く浸透した。また、汚い言葉を使わないよう心がけていたといい、「馬鹿野郎」を「バーロー」、「この野郎」を「コンニャロ」とアレンジをし、ジャイアンを憎めないキャラクターに成立させた。その野太い声で大柄なキャラクターがよく似合ったたてかべ和也の墓は、静岡県駿東郡の冨士霊園にある。墓には「無 大上」とあり、左側にジャイアンの十八番「心の友よ」が刻まれた墓誌が建つ。

by oku-taka | 2023-12-21 09:26 | 俳優・女優 | Comments(0)