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鈴木真砂女(1906~2003)

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鈴木 真砂女(すずき まさじょ)

俳人
1906年(明治39年)〜2003年(平成15年)

1906年(明治39年)、千葉県鴨川市の老舗旅館・吉田屋旅館(現在の鴨川グランドホテル)の三女として生まれる。本名は、鈴木 まさ。日本女子商業学校(現在の嘉悦大学)卒業後、22歳で日本橋の靴問屋の次男と恋愛結婚して一女を出産。夫婦仲は良かったものの、結婚7年目に賭博癖のあった夫が蒸発。娘を婚家に預けて実家に戻る。この頃から姉の影響で俳句を始める。大場白水郎の「春蘭」を経て、戦後に久保田万太郎の「春燈」へ入門。万太郎の死後は安住敦に師事した。一方、28歳の時に長姉が急死し、両親の要望で旅館の女将として家を守るために義兄(長姉の夫)と再婚。しかし、30歳の時に旅館を常宿としていた年下で妻帯者の海軍士官と不倫の恋に落ち、出征する彼を追って出奔するという事件を起こす。その後家に帰るも、夫婦関係は冷え切ってしまい、50歳のときに離婚し、吉田屋を去る。1957年(昭和32年)3月、銀座1丁目に小料理屋「卯波」を開店する。店の名前は自作句「あるときは 船より高き 卯浪かな」に由来する。その後は「女将俳人」として生涯を過ごし、生涯に7冊の句集を刊行した。1976年(昭和51年)、『夕螢』で第16回俳人協会賞を受賞。1995年(平成7年)、『都鳥』で第46回読売文学賞を受賞。1999年(平成11年)、『紫木蓮』で第33回蛇笏賞を最高齢の92歳で受賞。晩年は認知症を発症ふるなど体調を崩し、2003年(平成15年)3月14日、老衰のため東京都江戸川区の老人保健施設で死去。享年96。


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最高齢の女性俳人として、恋する女心を数多く詠んだ鈴木真砂女。51歳で銀座に小料理屋「卯浪」を開き、店の女将と俳人という二つの道を歩んできた彼女の人生は実に波乱なものであった。最初の結婚相手に蒸発された後、急逝した姉の代わりに旅館を継ぐこととなり、その姉の夫と再婚。旅館の女将となるも、好きになってしまった年下の客を追いかけて出奔。夫に連れ戻されるも、関係はそのまま継続。夫婦の間には埋めることのできない深い溝が生まれ、50歳のときに離婚。恋人と幸せな時を過ごせるかと思いきや、その恋人には妻子がいたという。恐ろしいほど純粋な恋愛、そして悲しいほど男運に恵まれなかった。離婚に至る原因となった年下の恋人は1977年(昭和52年)に亡くなったそうで、その命日は奥さんに譲るが、次の休日には墓参りを欠かさなかったという。しかし、その奥さんも亡くなって同じ墓に入ってからはピタリと墓参りはやめてしまう。そこで初めて嫉妬を感じたからというのが理由で、そのときに詠んだ句「亡き人へ 嫉妬いささか 萩括る」は大変印象に残っている。「今生の いまが倖せ 衣被」の句のように、浪高き生涯を天衣無縫に生きた鈴木真砂女の墓は、静岡県駿東郡の冨士霊園にある。墓には「芽木の空 浮雲一つ ゆるしけり 真砂女」とあり、左側に「あるときは 船より高き 卯浪かな」と刻まれた墓誌が建つ。

by oku-taka | 2023-12-05 16:58 | 文学者 | Comments(0)