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浦山桐郎(1930~1985)

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浦山 桐郎(うらやま きりお)

映画監督
1930年(昭和5年)〜1985年(昭和60年)

1930年(昭和5年)、兵庫県相生町(現在の相生市)に生まれる。生後まもなく母は産褥熱に急性腹膜炎を併発して死去。1931年(昭和6年)に父は母の妹と再婚したが、高校3年生のときに父が謎の自殺をした為、母の郷里の名古屋に移る。旧制姫路中学校(現在の兵庫県立姫路西高等学校)を経て、旧制姫路高等学校から名古屋大学文学部仏文学科を卒業。松竹の助監督募集に応募し、筆記試験では高得点をとるが、身体検査で落とされる。このとき山田洋次も落ち、その時の試験官だった鈴木清順に誘われ、日活の入社試験を山田と共に受ける。しかし、不合格となり、山田は合格。ところが、山田は松竹に補欠合格したため、浦山は日活に補欠合格することができ、1954年(昭和29年)に助監督として入社した。その後、川島雄三、今村昌平らにつく。川島の助監督時代、チーフが今村、セカンドが浦山であり、今村の鬼の形相と、浦山の熱心過ぎる演技指導から「鬼のイマヘイ、蛇のウラ公」と異名が付く。今村の形相が鬼と呼ばせたのだが、浦山は熱心過ぎる演技指導からのものだった。1962年(昭和37年)、早船ちよ原作、吉永小百合主演の『キューポラのある街』で監督デビュー。鋳物の町に暮らす貧しい若者の生き方を描いたこの作品は、日本映画監督協会新人賞、キネマ旬報ベストテン第2位など高い評価を受けた。1963年(昭和38年)、和泉雅子主演の『非行少女』で、モスクワ国際映画祭金賞を受賞。その後、「人生いかに生きるか」という誠実で真剣かつ論理的なテーマを追い求め、6年の時間を要した1968年(昭和43年)に遠藤周作の原作をもとに実験的演出を試みた『私が棄てた女』を発表。原作とは異なり、60年安保闘争に挫折した男と女工の愛という浦山の思いが反映され、また新人の小林トシ江を徹底的にしごき、追いつめられた彼女は自殺未遂を起こしたほどだった。当時の映画界は不況の真っ只中ということもあり、「客が来ない」という理由で公開が延期されたが、公開されるや大ヒットを記録し、作品的にも高い評価を受けた。しかし、日活はその後ロマンポルノに路線を変えたことから、浦山は日活を離れてフリーになる。1975年(昭和50年)、東宝で『青春の門』を手がける。吉永を再度起用するとともに、当時18歳の大竹しのぶを抜擢した。1977年(昭和52年)、続編の『青春の門 自立篇』も大ヒットし、キネマ旬報ベストテン5位に入るなど評価も高かったが、原作者五木寛之とキャスティングや内容描写で意見が衝突し、第3部は制作されなかった。1978年(昭和53年)、師匠・今村の企画ということでテレビドラマ『飢餓海峡』の演出を担当。テレビドラマは拒否し続けてきたが、同作は高く評価された。1979年(昭和54年)、初のアニメーション『龍の子太郎』を東映動画で撮る。1980年(昭和55年)には灰谷健次郎原作の『太陽の子 てだのふあ』を撮り、浦山は本作のために製作母体となる太陽の子プロダクションを設立した。1983年(昭和58年)、古巣の日活(当時にっかつ)で「にっかつ創立70周年記念作品」として初めてのロマンポルノ作品『暗室』を監督。1985年(昭和60年)、『青春の門』で脚本を執筆した旧知の早坂暁からNHKテレビで人気の同名シリーズの最終完結偏の映画化を依頼され、『夢千代日記』を監督。再び吉永小百合とのコンビとなるも、東映での初演出で、しかも余所者に厳しいことで名を轟かせる京都撮影所では構えざるを得なかった。第1回東京国際映画祭に出品する計画があったため、公開予定日は動かせなかったにもかかわらず、脚本を務めた早坂の体調が悪く、また北大路欣也の舞台の予定が後に入っており、ラストシーンを先に撮らなくてはならないなど、悪い条件が重なった。また、岡田らプロデューサーと吉永は、映画をテレビドラマの延長線上で捉え『完結編』とみなしていたが、浦山は「映画はテレビとは別」と主張し、テレビのイメージを壊したくない吉永と「そのイメージを壊さないと映画的な彫りの深さが出てこない」とする浦山と対立。テレビ版の『夢千代日記』の持つムードと社会派の浦山演出にズレがあった。撮影前のホン読みは同年2月15日からで、その前に決定稿(撮影台本)前の脚本が上がっていたが、これを浦山とプロデューサーで検討して、早坂が再び直しを入れ、決定稿が完成する筈だったが、早坂の直しがホン読み初日に戻って来ず、浦山は「台本を矛盾のないものにします」と話し、自分でホンを直すと宣言した。また、岡田プロデューサーが「早坂さんのホンが間に合わなかったら、監督のホンでやりますから」と二頭立てで撮影を進めると説明した。この年は暖冬で、雪が降ってもすぐ雨になり、湯村にロケハンに出かけたら道中まったく雪のない状態だった。雪があるうちに撮影しなければいけないという大前提があり、二月の終わりに雪が降ったため、早坂の前半部分にあたる脚本は無視して、浦山が急遽台本を作り撮影を敢行した。途中で早坂の脚本が上がってきたがもう修正は効かず、そのまま浦山の脚本で撮影を続けることになった。そのため、脚本は早坂が本来書きたかったものとは異なっている。一方、浦山はスタッフと酒を飲むと豹変し、周りに絡み嫌われた。東映京都にはいないタイプの人で、休憩時間にウォークマンでクラシックを聴くので、誰もそばに寄れず孤立する状況が生まれた。プロデューサーの岡田・佐藤雅夫・坂上順・斎藤一重のうち、岡田、佐藤、坂上は後に社長や撮影所長など幹部になった人たちで、現場にずっといたが、改善は出来なかった。その後、浦山は断末魔の苦しみの中で死んでいく夢千代を演じてほしいと吉永に注文を出した。吉永は5年間に渡って演じてきた夢千代は、吉永自身にとって最高の女性であり、最後まで死ぬ時でさえ優しいままの、温かい心のままの夢千代でいてほしい、強い意志に支えられた優しさを守り通してほしいと願っていた。夢千代の最後の死の床での台詞は、シナリオでは「ピカが怖い」だったが、浦山は「ピカが憎い」と変えてほしいと言った。浦山は社会派の監督で、そうしたメッセージを込めたかったものと思われたが、吉永は先のような夢千代像があったため、夢千代は「『ピカが憎い』とは言わない」と反論した。浦山と数日話し合いを続けたが一致点を見い出せず、結局、この場面は、「ピカが…」「ピカが落ちた」「ピカが…」と、言葉は無しで撮影された。吉永が浦山とぶつかったのはこの一度だけであったが、こうした対立により浦山の酒量が多くなった。『夢千代日記』の公開からわずか5カ月あまりの10月20日、急性心不全で死去。享年55。


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生涯にわずか9本の映画を残した寡作の映画監督・浦山桐郎。納得するまで粘り強く時間をかけ、丁寧にこだわって作品を作り続けた。また、盲腸の手術を行った吉永小百合には退院翌日に荒川の土手を全力で走らせ、和泉雅子からは「ウラ公を殺して、自分も死ぬ」と日記に書かれ、新人の小林トシ江を自殺未遂に追い込むまで指導するなど、その凄まじい演出と徹底なしごきで「女優育ての名手」と評された。しかし、『夢千代日記』では、初めてとなる東映京都撮影所での撮影でその空気とスタッフに馴染めず、早坂暁の脚本を無視したことやキャストの変更で作品自体にも違和感が生まれ、果ては4度もコンビを組んできた吉永とも溝が出来てしまった。故に本ドラマファンからの支持を得られず、ヒットとは到底呼べない作品となってしまった。これが遺作となってしまった浦山桐郎の墓は、静岡県駿東郡の冨士霊園にある。墓には「複眼凝視 浦山」とあり、背面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2023-12-05 16:40 | 映画・演劇関係者 | Comments(0)