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市川房枝(1893~1981)

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市川 房枝(いちかわ ふさえ)

婦人運動家
1893年(明治26年)〜1981年(昭和56年)

1893年(明治26年)、愛知県中島郡明地村(現在の一宮市)に生まれる。父親は自分の生業の農業に否定的である反面教育熱心で、長男を小学校の教師から東京の政治学校の学生、米国の大学の留学生に育てて、長女は奈良県の女子師範学校生にして、房枝の妹は名古屋市の淑徳女学校に進学させた後に渡米、アメリカの日系人と結婚している。一方の房枝は、岡崎市の愛知県第二師範学校女子部に入学。1912年(明治45年)4月、名古屋市に新設された愛知県女子師範学校(愛知教育大学の前身)に移り、同校の第1回卒業生となる。在学中、良妻賢母教育に反対して同級生と授業ボイコットを実施し、後の婦人運動家としての活動を予感させた。卒業後は愛知県内の訓導として勤務したが、病気のため退職。1917年(大正7年)、名古屋新聞(現在の中日新聞)の記者となる。 1919年(大正8年)、平塚らいてうらと日本初の婦人団体新婦人協会を設立。女性の集会結社の自由を禁止していた治安警察法第五条の改正を求める運動を展開した。1921年(大正10年)、渡米し、シカゴやニューヨークで働きながらアメリカ合衆国の婦人運動や労働運動を見学し、アリス・ポールやキャリー・チャップマン・キャットとも面会する。1924年(大正13年)、「婦人参政権獲得期成同盟会」を結成。男子普通選挙が成立した1925年(大正14年)には、同盟会を「婦選獲得同盟」と改称。政府・議会に婦人参政権を求める運動を続けた。1924年(大正13年)、国際労働機関(ILO)の職員となり、女性の深夜労働などの実態調査を行ったが、1927年(昭和2年)に辞職した。1930年(昭和5年)、「第1回婦選大会」を開催。同年、婦人参政権(公民権)付与の法案が衆議院で可決されるが、貴族院の反対で実現に至らなかった。他にも母子保護や、生活防衛などを目的とした様々な運動に関わった。1933年(昭和8年)、東京婦人市政浄化連盟を組織。1937年(昭和12年)頃には東京婦人会館の評議員を務める。戦時下には、国策(戦争遂行)への協力姿勢をみせることで、婦人の政治的権利獲得を目指す方針をとって評論活動を行った。1940年(昭和15年)、婦選獲得同盟を解消し「婦人時局研究会」へ統合。1942年(昭和17年)、婦人団体が大日本婦人会へ統合。大政翼賛会を中心とした翼賛体制に組み込まれ、房枝は大日本言論報国会理事に就任した。1945年(昭和20年)8月25日、久布白落実、山高しげり、赤松常子らと共に「戦後対策婦人委員会」を組織し、引き続き政府や各政党に婦人参政権を要求。同年10月10日、市川とも交流があった内務大臣の堀切善次郎が、幣原内閣の初閣議で婦人参政権の実現を提案し、同内閣は普通選挙法の改正を決定した。11月3日、戦後初の婦人団体「新日本婦人同盟」を結成し会長に就任。12月17日には衆議院議員選挙法改正で婦人参政権(男女普通選挙)が実現した。1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙では39人の婦人(女性)議員が誕生。房枝は自ら立候補せず、また有権者名簿の登録漏れのため投票もできなかった。しかし、戦時中に大日本報国言論会理事であったため、1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)まで公職追放となる。1950年(昭和25年)10月13日、追放が解除となる。同年11月9日、新日本婦人同盟の臨時総会において、団体の名称が日本婦人有権者同盟と改称され、房枝は会長に復帰。その後は、公娼制度復活反対や売春禁止、再軍備反対などの運動にも取り組んだ。1953年(昭和28年)、第3回参議院議員通常選挙に東京地方区から立候補し当選。以後、1959年(昭和34年)、1965年(昭和40年)と連続して当選。組織に頼らず個人的な支援者が手弁当で選挙運動を行う選挙スタイルを生涯変えず、「理想選挙」とまで言われた。市川は自らの選挙手法を他の候補者にも広めようとしてさまざまな選挙浄化運動に参加した。 国会内では政党に属さず、無所属議員の集合体である第二院クラブに所属して活動を行った。1962年(昭和37年)、第二院クラブを結成。1963年(昭和38年)、山口組の田岡一雄らが結成した「麻薬追放国土浄化同盟」に加入。一方で、「国際連合に日本人女性を送り出したい」と考え、1968年(昭和43年)に当時国際基督教大学講師を務めていた国際政治学者の緒方貞子に白羽の矢を立て、その年の国際連合総会日本代表団に加わるよう緒方を説得して了承させた。これが契機となり緒方は国際連合の仕事に関わるようになる。4期目を目指した1971年(昭和46年)の第9回参議院議員通常選挙で落選。1972年(昭和47年)、沖縄返還密約問題に対し「情を通じ」という発表のみを重視し、日本社会党の土井たか子、佐々木静子、田中寿美子らとともに「蓮見さん問題を考える会」を結成。1974年(昭和49年)、金権政治に反対する青年たちに推され、第10回参議院議員通常選挙で全国区から立候補して当選。また、社会問題化していた旧統一教会への反対運動にも協力。1978年(昭和53年)に発足した「原理運動を憂慮する会」の呼びかけ人にも名を連ねた。同年、春の叙勲にあたって勲二等宝冠章授与を打診されたが、辞退した。1980年(昭和55年)6月の第12回参議院議員通常選挙(衆参同日選挙)で、87歳の高齢にもかかわらず全国区でトップ当選を果たす。1981年(昭和56年)2月11日、心筋梗塞のため議員在職のまま死去。享年89。2月13日、参議院本会議では房枝への哀悼演説と永年在職議員表彰がともに行われた。


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女性参政権運動に生涯をかけ、明治・大正・昭和の三世代を生きた市川房枝。戦前は婦人参政権の獲得運動を牽引し、戦後は自ら参議院議員として女性の地位向上に努めた。「婦選は鍵なり」を信条に、女性が政治に参加することが重要だと訴え続け、女性の政治活動禁止、政治集会に参加することすら許されないという時代に大きな変革をもたらした。あらゆる妨害を受け、世間からは「猛者」と揶揄され、政治集会に参加して警察から呼び出しを受けるなど、様々な障壁が立ちはだかったが、毅然として立ち向かった。日本の歴史を変え、教科書にも名を残す市川房枝の墓は、静岡県駿東郡の冨士霊園にある。墓には、随想集『だいこんの花』からの直筆「いこい」が、背面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2023-11-03 21:18 | 評論家・運動家 | Comments(0)