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高橋たか子(1932~2013)

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高橋 たか子(たかはし たかこ)

作家
1932年(昭和7年)〜2013年(平成25年)

1932年(昭和7年)、京都府京都市下京区醒ヶ井通仏光寺下ル荒神町で生まれる。本名は、高橋 和子(たかはし たかこ)。旧姓は、岡本。京都府立嵯峨野高等女学校から京都府立山城高等学校を経て、京都大学文学部に進学。在学中に高橋和巳と知り合い、卒業の半年後に結婚する。1954年(昭和29年)、京都大学文学部フランス文学科を卒業し、大学院に進む。その一方で、作家志望の和巳が働かなかったため、たか子が家庭教師や翻訳、外国人観光客のガイドなどをして家計を支え、加えて夫の原稿の清書なども精力的に手伝った。1958年(昭和33年)、修士を取得。夫と共に、布施市吉松蔦崎町(現在の東大阪市)、等持院北町のたか子の実家、吹田市大字垂水と転居し、1965年(昭和40年)に鎌倉市二階堂理智光寺に住む。この間の1960年(昭和35年)には、「婦人公論」女流新人賞に応募。その縁で、担当編集者だった近藤信行が主宰する「白描」の同人となり、「化身」「白夜」「骨の城」などシュールレアリズム作品を発表した。1967年(昭和42年)、和巳は京都大学助教授に就任したが、たか子は、業務専念義務のある大学教員になることで和己の小説家への道が閉ざされることを心配し、また関西にいた頃に和己のもとに出入りした文学仲間から無視されつづけた経験が耐えがたかったことから、京都へは同行せず約半年間フランスに滞在。和巳は単身赴任となった。しかし、1969年(昭和44年)に和巳が病に倒れたことから、たか子は献身的に介護する。1971年(昭和46年)、和巳と死別。これを機とし、小説の執筆を本格化。同年、第一創作集『彼方の水音』に所収された短編を発表。1972年(昭和47年)、短編集『骨の城』に収録された幻想的な初期作品群によって注目を集める。1974年(昭和49年)、長編『空の果てまで』で田村俊子賞を受賞。1975年(昭和55年)、遠藤周作の勧めでカトリックの洗礼を受ける。また、京都市の女子カルメル会に入会し、修道生活を送った。1976年(昭和51年)、三原山での女子大学生の投身自殺を描いた『誘惑者』で泉鏡花文学賞を受賞。1977年(昭和52年)、『ロンリー・ウーマン』で女流文学賞を受賞。1980年(昭和55年)、パリのサン=ジェルヴェ・サン=プロテ教会を母体とするエルサレム修道会の創立者のPère Pierre-Marie Delfieuから修道生活の誘いを受け、1981年(昭和56年)からパリに安アパートを借りて住み、隠修者となる。この間にフランス各地の修道院を訪ね、1985年(昭和60年)には正式にエルサレム会へ入会した。同年、昭和50年代の京都の町家を舞台にした『怒りの子』で読売文学賞を受賞。1990年(平成2年)、還俗して帰国。認知症を患った母を介護する傍ら、作家として信仰者の内面を描いた作品を多く発表した。2004年(平成16年)、『きれいな人』で毎日芸術賞を受賞。母の没後は神奈川県茅ヶ崎市に転居し、2013年(平成25年)7月12日、心不全のため茅ヶ崎市の老人ホームで死去。享年81。


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女性の内面を追求した小説を書き続けた高橋たか子。作家志望の青年から全共闘のアイドル作家となった高橋和巳を妻として支え、闘病生活も献身的に看護した。夫亡き後は自ら作家となり、それまで抑えていたものが溢れるかのように作品を量産。当初は女性心理の深層を凝視する作品を多く書き、洗礼を受けてからは神と人間のかかわりを凝視するカトリック作家に転身。平成に入ってからは、信仰者の内面を描き続けた。高橋たか子の墓は、静岡県駿東郡の冨士霊園にある。墓には「高橋和巳 和子」とあり、背面に墓誌が刻む。

by oku-taka | 2023-11-03 21:08 | 文学者 | Comments(0)