人気ブログランキング | 話題のタグを見る

高橋和巳(1931~1971)

高橋和巳(1931~1971)_f0368298_20591196.jpg

高橋 和巳(たかはし かずみ)

作家
1931年(昭和6年)〜1971年(昭和46年)

1931年(昭和6年)、大阪府大阪市浪速区貝柄町に生まれる。1944年(昭和19年)、大阪府立今宮中学(現在の大阪府立今宮高等学校)入学。1945年(昭和20年)4月、母の郷里である香川県に疎開し、香川県立三豊中学(現在の香川県立観音寺第一高等学校)に編入学。少年期の戦争体験をもとに、埴谷雄高や野間宏など第一次戦後派の小説に傾倒。1948年(昭和23年)3月、大阪府立今宮中学4年を修了し、旧制松江高校に入学。1949年(昭和24年)7月、新制京都大学文学部に入学した。在学中は吉川幸次郎に師事する傍ら、「京大文芸同人会(京大作家集団)」、「ARUKU」、「現代文学」などで活動。“政治と文学”が問題とされる中で、処女作「片隅から」を発表した。1954年(昭和29年)3月、京都大学文学部中国語中国文学科を卒業。4月より大学院に進学。また、布施市立日新高校(現在の東大阪市立日新高等学校)定時制講師に就任。1959年(昭和34年)3月、大学院博士課程を単位取得満期退学。同時期に同人誌「VIKING」で執筆を開始。4月には立命館大学の講師に就任し、白川静や梅原猛と交流を持つ。また、中国文学者として「李商隠」など優れた中国文学研究の成果も残す。1962年(昭和37年)、『悲の器』が河出書房文芸賞第1回長編部門に当選し、一躍注目を浴びる。続いて戦時下の精神を追究した『散華』、ある新興宗教の教団を中心に昭和の精神史を描かんとした『邪宗門』、1950年代の学生運動を描いた『憂鬱なる党派』など次々に大作を刊行。1965年(昭和40年)、ベ平連の呼びかけ人となる。1966年(昭和41年)4月、明治大学文学部助教授に就任。1967年(昭和42年)6月、京都大学文学部助教授に就任。おりからの大学紛争のなかで学生側を支持し、全共闘派の批判を最も誠実に受けとめた知識人と称されたが、やがて心身ともに疲労して1969年(昭和44年)3月に京都大学文学部助教授を辞職した。その後、小田実らと季刊雑誌「人間として」を発刊するが、同年4月に胆嚢の裏にある上行結腸癌の手術のため、東京女子医大消化器センターに入院。病名は最期まで本人には知らされず、見舞客には「急性の肝炎から慢性の肝炎」になったと話していた。6月には退院したものの、12月に結腸癌転移のため再入院。1971年(昭和46年)5月3日午後10時55分、結腸癌のため東京女子医科大学病院で死去。享年39。


高橋和巳(1931~1971)_f0368298_20591274.jpg

高橋和巳(1931~1971)_f0368298_20591143.jpg

知識人のあり方を追求した長編を多く発表した高橋和巳。1人の刑法学者の破滅を通して人間の根本的悪を描破した『悲の器』で注目され、作品はテレビドラマ化もされた。その後も作品の執筆のみならず、現代社会の様々な問題について発言し、全共闘世代の間で支持を得た。その絶頂期に癌で倒れ、自らが侵されている病を知らないまま、39歳という若さで世を去った。その半年前には三島由紀夫が割腹自殺を遂げており、当時の文学青年に大きな衝撃をもたらすことになった。高橋和巳の墓は、静岡県駿東郡の冨士霊園にある。墓には「高橋和巳 和子」とあり、背面に墓誌が刻む。戒名は、「大慧院和嶺雅到居士」。

by oku-taka | 2023-11-03 21:00 | 文学者 | Comments(0)