人気ブログランキング | 話題のタグを見る

杉村春子(1906~1997)

杉村春子(1906~1997)_f0368298_16284837.jpg

杉村 春子(すぎむら はるこ)

女優
1906年(明治39年)〜1997年(平成9年)

1906年(明治39年)、広島県広島市西地方町(現在の広島市中区土橋町、河原町付近)に生まれる。本名は、石山 春子。旧姓は中野。芸者の母、軍人だったとされる父は春子の幼時に亡くなったため、花柳界の中にある建築資材商と置屋経営者の養女となる。養父は近所の寿座という西日本一の芝居小屋の株主だった関係で、幼少期から歌舞伎や新派、歌劇、文楽などに親しむ。1922年(大正11年)、山中高等女学校(現在の広島大学付属福山高)を卒業。声楽家を目指し上京し、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)を受験するが、2年続けて失敗。1924年(大正13年)に広島へ戻り、1925年(大正14年)から広島女学院で音楽の代用教員をしていた。広島女学院の教員室で築地小劇場(俳優座の前身)の広島公演の話を聞き、同劇団の旅芝居を見て感動。1927年(昭和2年)4月、養母に音楽の勉強をしたいからと偽り再び上京。劇団の合否を待たずに代用教員は退職し、同劇場のテストを受けた。しかし、広島訛りが強く、土方与志から「三年くらいセリフなしで辛抱するなら」という条件付きで採用され、築地小劇場の研究生となった。芸名は姓だけ俳優・青山杉作の一字を貰い、"杉村春子"とした。同月、『何が彼女をさうさせたか』にたまたま欠員が出たため、音楽教師の前歴を買われてオルガン弾きの役(台詞無し)で初舞台。同年、小山内薫が監督をした『黎明』で映画初出演を果たす。1929年(昭和4年)、築地小劇場が分裂・解散した後は友田恭助らの築地座に誘われて参加し、1935年(昭和10年)の舞台『瀬戸内海の子供ら』(小山祐士作)に出演した。築地座解散後の1937年(昭和12年)、岸田国士、久保田万太郎、岩田豊雄らが創立した劇団文学座の結成に参加。直後に友田恭助が戦死したことで、同劇団の中心女優として力を付けていく。1933年(昭和8年)、5歳年下で慶應義塾大学出身の医学生である長広岸郎と結婚したが、9年後に結核で亡くなっている。1938年(昭和13年)、花柳章太郎の新生新派に客演し、大きな影響を受ける。1940年(昭和15年)、国策映画『奥村五百子』(豊田四郎監督、東宝)で初主演。同年、『ファニー』で主役を演じ、以降文学座の中心女優となった。特に1945年(昭和20年)4月、東京大空襲下の渋谷東横映画劇場で初演された森本薫作『女の一生』の布引けいは当たり役となり、上演回数は900回を超え、日本の演劇史上に金字塔を打ち立てた。その他、日本のそれまでの芝居になかった"女"のすべてをリアルにさらけ出した『欲望という名の電車』のブランチ役(上演回数593回)、『華岡青洲の妻』の於継役(上演回数634回)、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』のお園役(上演回数365回)、『華々しき一族』の諏訪役(上演回数309回)などの作品で主役を務め、『女の一生』と並ぶ代表作とした。『女の一生』等をきっかけに劇作家・森本薫の愛人となったが、森本も1946年(昭和21年)に結核で亡くなった。1948年(昭和23年)、『女の一生』で演劇部門で戦後初の日本芸術院賞を受賞した。一方、黒澤明、木下惠介、小津安二郎、成瀬巳喜男、豊田四郎、溝口健二、今井正などの巨匠たちから、既存の映画俳優には無い自然でリアルな演技力を高く評価され、日本映画史を彩る140本以上の作品に出演。森雅之と共に最も映画に貢献した新劇俳優となった。特に『東京物語』『麦秋』をはじめとする小津安二郎作品の常連でもあり、小津組でたった一人、読み合わせへの不参とかけ持ちを許された俳優であった。1950年(昭和25年)、10歳年下の医者である石山季彦と結婚。しかし、16年後にこれまた結核で亡くなっている。1951年(昭和26年)、『麦秋』『めし』『命美わし』で第2回ブルーリボン賞助演女優賞を受賞。1953年(昭和28年)、『にごりえ』『東京物語』 で第8回毎日映画コンクール女優助演賞を受賞。1959年(昭和34年)、放送文化賞を受賞。一方、1950年代に中国、ヨーロッパを見て回るツアー・アジア文化交流団に参加し、中国の演劇人と交流。1956年(昭和31年)、中国で有名な劇作家・夏衍に「日本と中国は一番関係が悪いので、何か出来ませんか」「私たちが演劇人としてできることがあれば参ります」と直訴し、渡航が困難な時代に新劇の中国公演に意欲を燃やした。1958年(昭和33年)、日本新劇俳優協会設立に参加し、常任理事となる。60年安保前後から左翼に接近し、安保反対のデモ行進にも積極的に参加。1960年(昭和35年)6月15日の参議院国会参議院面会所前であった新劇人会議のデモに暴力団が殴り込み、80人の負傷者を出したが、杉村は劇団の若い女優たちのスクラムに守られて難を逃れた。同年10月、中国の革命的劇作家・関漢卿を記念する初めての新劇訪中団(文学座、劇団民藝、東京芸術座、ぶどうの会、俳優座71人による合同公演)として、『女の一生』を公演した。1963年(昭和38年)1月、春子の感情の起伏が激しい性格と、専横ともいえる劇団への統率ぶりに不満を持った芥川比呂志、岸田今日子、仲谷昇、神山繁、加藤治子、小池朝雄ら、中堅劇団員の大半が文学座を集団脱退し、現代演劇協会・劇団雲を結成。そんな中、三島由紀夫が同年1月16日、文学座の結束を固め再出発したいとの旨の声明を発表し、2月11日に文学座再建のためのプランを発表。三島は、「現代劇の確立」「西洋演劇の源流を探る」「日本の古典を探る」という3つの課題を提示した。この課題に基づいて、三島潤色のヴィクトリアン・サルドゥ原作の『トスカ』が、春子主演で上演された。その後、翌年の正月公演用の戯曲が三島に委嘱され、『喜びの琴』が提供された。『喜びの琴』は、言論統制法を内閣が制定しようとしている時代(当時からみた近未来)を背景にしており、反共主義思想を固く信じる若い公安巡査・片桐を主人公にした、政治色の強い題材の作品であった。劇中に起こる「上越線転覆事件」は松川事件を連想させる内容であり、同年9月に松川事件の首謀者とされた国労関係者20名の無罪が確定したばかりであった。しかし、作品の結末は「思想の絶対化を唯一の拠り所として生きてきた片桐は、その思想が相対化されるといふ絶対的な孤独の中で、観客には聞こえない琴の音に耳をすませ、仕事に戻る――」という、信じていた上司に裏切られた若い公安巡査の悲劇を描いたもので、政治的プロパガンダ作品ではなかった。同年11月20日、文学座劇団員の臨時総会が開かれ、毛沢東支持者であった春子らが先導し、『喜びの琴』上演保留が決定。翌日、戌井市郎理事らが、その上演保留決定を三島に伝え申し入れた。三島は、保留ではなく中止とすることで、「文学座は思想上の理由により上演中止を申し入れ、作者はこれを応諾した」という証書を取り交わした。11月25日、三島は戌井市郎理事に文学座退団を申し入れ、11月27日の『朝日新聞』紙上に、「文学座の諸君への『公開状』――『喜びの琴』の上演拒否について」を発表し、上演中止に至る経緯と顛末を書くとともに痛烈な内容で締めくくり、その翌日に矢代静一、松浦竹夫も文学座退団を声明した。12月15日、三島は『週刊読売』に「俳優に徹すること――杉村春子さんへ」という記事を発表。三島は春子に対し「俳優は、良い人間である必要はありません。芸さへよければよいのです。と同時に、俳優は、俳優に徹することによつて思想をつかみ、人間をつかむべきではないでせうか。組織のなかで、中途はんぱなつかみ方をするのはいけないと思ひます」と皮肉をまじえて批判した。同年12月、三島、矢代静一、松浦竹夫のほか、青野平義、奥野匡、荻昱子、賀原夏子、北見治一、丹阿弥谷津子、寺崎嘉浩、中村伸郎、仁木佑子、真咲美岐、南美江、宮内順子、水田晴康、村松英子ら10数名が次々と文学座を正式に脱退。春子は、これらの脱退メンバーの大半とはその後の関係を断絶し、特に反杉村を鮮明にしていた福田恆存が代表となった劇団雲に参加したメンバーに対しては、共演を頑なに拒否するなど終生許すことはなかった。文学座は、主要メンバーの2度にわたる大量離脱で創立以来最大の危機を迎え、当時の新聞は"崩壊に瀕する文学座"などと書きたてたが、太地喜和子、江守徹、樹木希林、小川真由美、高橋悦史ら若手を育てることにより乗り切った。テレビ時代を迎えていた時流に乗って、次々にテレビに新人を送り込み、自身もニューメディアのテレビに積極的に出演した。ただし、春子の専横に批判的だった人物が抜けてしまったことにより、春子の劇団に対する独裁に近い影響力にさらに拍車がかかったとの見方もあり、この頃から"文学座の女王"と異名を持った。1965年(昭和40年)、第二次訪中新劇団の一員として北京・上海・南京・広州にて公演を行い、『女の一生』は話を随分変えて中国でも上演され、中国のマスメディアにもよく知られていた存在となる。1967年(昭和42年)、『女の一生』の再演が決定。これにより文学座が立ち直るきっかけとなり、1968年(昭和43年)の『女の一生』全国縦断公演は行く先々で超満員を記録。『女の一生』は新劇の枠を超えたような演目で知名度が高く、新劇ファンでないお客も大勢詰めかけた。杉村はもう60歳を越えており、当時の文学座ではマスメディアに小川真由美、太地喜和子、藤田弓子がよく取り上げられていたが、観客吸引力を持っているのはやっぱり杉村だけだった、と話題を呼んだ。当時はハダカになりさえすればスターになれると勘違いしている若手女優も多かっただけに、芸を魅せる杉村を見習えとの論調も上がった。このことは新劇の商業演劇進出の走りといわれる。『女の一生』は、16歳の役から始まるという事情からいずれやめるつもりでおり、1969年(昭和44年)4月公演のとき「『女の一生』はこれが最後です」と宣言した。同年、朝日文化賞と毎日芸術賞を受賞。1970年代初めに文学座の経済危機が起こり、「経済的事情で、もう1回やります」と記者会見を開き、1973年(昭和48年)に『女の一生』を再演した。1974年(昭和49年)、女優としては3人目の文化功労者に選出。1981年(昭和56年)4月、16年ぶり3回目の訪中で、春子が個人的に交わした口約束を強引に実現させられる。中国側からの招待の形を取ってはいたが、宿泊費のみを中国側が負担し、渡航費用は自己負担した。文学座の単独公演を目指していたが、この難条件を克服するため、春子が千田是也を担ぎ出し、青年座と劇団仲間を加えた四劇団で日本新劇団訪中公演実行委員会(杉村団長)を急造した。1983年(昭和58年)には民音に協力を仰ぎ、北京人民芸術劇院を初来日させた。1988年(昭和63年)、山路ふみ子映画賞文化賞を受賞。1991年(平成3年)、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』で第26回紀伊国屋演劇賞と芸術祭賞を受賞。1994年(平成6年)、第2回読売演劇大賞の大賞と最優秀女優賞を受賞。1995年(平成7年)、当時89歳で新藤兼人の『午後の遺言状』に主演。同作で、毎日映画コンクール、日刊スポーツ映画大賞、キネマ旬報で主演女優賞を受賞した。同年、文化勲章授章決定の内示を受けたが、「勲章は最後にもらう賞、自分には大きすぎる。勲章を背負って舞台に上がりたくない、私はまだまだ現役で芝居がしていたいだけ」「戦争中に亡くなった俳優を差し置いてもらうことはできない」とこれを辞退。周りの者がいくら説得しても聞く耳持たずだった。1996年(平成8年)、日本新劇俳優協会会長に就任。1997年(平成9年)1月19日、NHKドラマ『棘・おんなの遺言状』の収録中に貧血と腰痛を訴えて入院し降板。2月に入り、文学座の会見では十二指腸潰瘍と発表されたが、そのときすでに医師から膵臓癌でもあることが文学座の社長の梅田濠二郎、戌井市郎や北村和夫・江守徹など親しい者にだけ知らされた。3月に新橋演舞場で予定されていた『華岡青洲の妻』も、チケットが発売されている中での緊急降板となった。病室では簡単なストレッチをしたり、男性の見舞い客が来ると聞くと長い時間をかけてお化粧をしたりと、常に弱っている姿を見せまいと気丈に振る舞っていたという。同年3月16日から意識が混濁し、4月4日午前0時30分、頭部膵臓癌のため東京都文京区の日本医科大学付属病院で死去。享年91。本人には癌であることを知らせなかったため、死去の直前まで台本を読んでおり、最期まで女優であり続けた。没後、政府から銀杯一組が贈られた。


杉村春子(1906~1997)_f0368298_16284676.jpg

杉村春子(1906~1997)_f0368298_16284626.jpg

杉村春子(1906~1997)_f0368298_16284748.jpg

日本の演劇界に大きな足跡を残した大女優・杉村春子。文学座の中心的な役者として長年君臨し、『女の一生』の布引けい役を筆頭に、『欲望という名の電車』のブランチ、『鹿鳴館』の影山朝子伯爵夫人、『華岡青洲の妻』於継など数々の名演を残した。舞台のみならず、映画からテレビドラマまで幅広く活躍し、その自然体ながら独特の存在感を示す演技力は、小津安二郎から絶大な信頼を寄せられた。そのカリスマ性に魅せられた人は多く、高峰秀子、森光子、岡田茉莉子、若尾文子といった一流の女優たちからも尊敬されていた。演劇人の目標として、没してもなお存在の大きい杉村春子の墓は、静岡県駿東郡の冨士霊園にある。墓には「石山」とあり、背面に墓誌が刻む。また、左側には代表作『女の一生』の有名なセリフ「だれが選んでくれたんでもない、自分で歩き出した道ですもの」が刻まれた碑が建つ。

by oku-taka | 2023-10-15 16:30 | 俳優・女優 | Comments(0)