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車谷長吉(1945~2015)

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車谷 長吉(くるまたに ちょうきつ)

作家
1945年(昭和20年)〜2015年(平成27年)

1945年(昭和20年)、兵庫県飾磨市下野田(現在の姫路市飾磨区下野田)に生まれる。本名は、車谷嘉彦(しゃたに よしひこ)。姫路市立飾磨小学校から姫路市立飾磨中部中学校に進み、その後、地元の進学校である兵庫県立姫路西高等学校の受験に失敗して、姫路市立飾磨高等学校に進学。ここで生じた劣等感から強烈な上昇志向を抱く。先天性蓄膿症のため鼻だけで呼吸できないことに悩み、1962年(昭和37年)に60日間以上入院して5時間以上の手術を二度受けたが治癒せず、悩んでいた時期に森鴎外や夏目漱石の作品を読んで救われ、小説家を志望する。1964年(昭和39年)、慶應義塾大学法学部と文学部に合格し、両親からは前者への進学を希望されたが、「鴎外、漱石さんにおすがりしたいという気持ち」から後者に入学する。講師となったばかりの江藤淳による江戸期の文学についての講義を三年間聴講し、それが自身の文学観の基礎となった。1966年(昭和41年)、高校時代の友人と同人誌『風船』を創刊。1968年(昭和43年)、独文科を卒業し、東京・日本橋の広告代理店「中央宣興」に入社する。1971年(昭和46年)2月からは現代評論社の『現代の眼』編集部に勤務。三島由紀夫の自殺に触発され、また創元文庫の「西行法師全歌集」を読んで「世捨て」という生き方に強く心を奪われて発心し、会社員生活の傍ら私小説を書き始め、1972年(昭和47年)に処女作『なんまんだあ絵』で新潮新人賞の候補となる。筆名の「長吉」は、唐代の詩人李賀にちなむ。1973年(昭和48年)、現代評論社を辞めて、朝日新聞社の中途採用試験に合格したものの、石油危機の影響で内定を取り消される。筆で身をたてようとするも、原稿を没にされ続けて行き詰まり、無一文にとなったことから、1976年(昭和51年)1月30日に夜行列車へ飛び乗って故郷に逃げ戻る。母親に激怒され「一生旅館の下足番でもやれ」と言われ、職業安定所に行くと本当に旅館の下足番の募集があったため、そこに雇われた。下足番として働きつつ、姫路忍町のみかしほ調理師専門学校で学び、1977年(昭和52年)3月に同校を卒業する。30歳からの8年間は、旅館の下足番や料理人として、神戸、西宮、曽根崎、尼崎、三宮などのタコ部屋を転々と漂流する住所不定の生活を送り、朝6時から夜11時まで働き、月給は2万円から5万円であった。一方、『新潮』1976年(昭和51年)5月号に「魔道」(後に「白桃」に改題)を、同誌1981年(昭和56年)8月号に「萬蔵の場合」を、『文學界』1982年(昭和57年)5月号に「雨過ぎ」(後に「ある平凡」に改題)を発表。「萬蔵の場合」は第86回芥川賞候補となった。1983年(昭和58年)6月、担当編集者の前田速夫からの強い呼びかけもあり、東京へ戻る。西武流通グループ広報室に嘱託社員として勤務して生計を立てながら執筆をする。1985年(昭和60年)、西武セゾングループ五十年史編纂委員会事務局に転勤。同年、「吃りの父が歌った軍歌」を『新潮』に発表すると、作家の白洲正子から作品を絶賛する私信を受け取る。以後、白洲が死ぬまで目を掛けられ続け「私の生き方を継いで欲しい」と遺言を受けている。1993年(平成5年)、苦節20年にして初の単行本『鹽壺の匙』を上梓。表題作では、車谷の故郷の播州飾磨を舞台として、語り手の叔父が自殺を遂げるまでの内面が、没落地主階級の社会的・歴史的厚みの中で精細に描かれ、第43回芸術選奨文部大臣新人賞と第6回三島由紀夫賞を受賞する。1995年(平成7年)、人員整理でセゾングループを解雇され、キネマ旬報社嘱託社員として、『キネマ旬報』の校正の仕事に就く。同年、作者を模した語り手が、料理人時代の同僚から身の上話を聞かされて、少年の殺害を告白されるという短編「漂流物」で第113回芥川賞候補となるが、題材の不条理殺人事件が、物情騒然たる時代に社会不安を助長するかもしれないとされて落選。1996年(平成7年)、芥川賞落選の失意から強迫神経症を発症する。幻視、幻聴、幻覚に襲われ、一日、五百回から六百回手を洗っていた。1996年(平成8年)、西武セゾングループ資料室に復職し、週二日の勤務となる。1997年(平成9年)、単行本『漂流物』で第25回平林たい子文学賞を受賞。1998年(平成10年)、初の長編『赤目四十八瀧心中未遂』を上梓。会社員生活をドロップアウトして、尼ヶ崎のはずれの吹き溜まりの街に流れ着き、焼き鳥屋のモツの串打ちの下仕事をする男と、背中に迦陵頻伽の刺青を背負った謎めいた女との逃避行が描かれた本作で、第119回直木賞を受賞。伊藤整文学賞にも内定したが、伊藤整との文学観の違いから、受賞を拒否した。2000年(平成12年)、武蔵丸と名付けた兜虫と暮らす夫婦の日常生活を描いた短編「武蔵丸」を発表。同年10月末西武セゾングループを退職する。2001年(平成13年)、「武蔵丸」で第27回川端康成文学賞を受賞。2004年(平成16年)4月、『新潮』1月号掲載の私小説「刑務所の裏」(後に書き直して「密告」と改題)で事実と異なることを描かれ名誉を傷つけられたとして俳人の齋藤愼爾に提訴される。同年12月に齋藤の申し立てをのみ和解し、同時に「凡庸な私小説作家廃業宣言」を発表。以降は私小説を離れ、史伝小説や掌編小説、聞き書き小説などに創作の軸を移した。2011年(平成23年)1月、脳梗塞を発症。2015年(平成27年)5月17日、妻の留守中に解凍済みの生のイカを丸呑みし、喉に詰まらせたことによる窒息のため死去。享年69。


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実生活で起きた出来事を題材とし、それを赤裸々に描いた私小説で知られる車谷長吉。小学校6年生の時に体験した叔父の自殺が作家としての原点となり、叔父の死について書くことを人生の目標とした。しかし、思った作品が書けず、編集者から何回も書き直しを命じられた後に挫折。旅館の下足番や料理屋の下働きをしながら各地を転々としたが、その経験が後に作家として大成する大きな土台となった。自身に起きた出来事を忖度なく書いたことから様々な人と衝突し、母親から「身内のことを書くな」と言われながらも、その言葉さえ文章にしてしまうという捨て身の私小説作家。貧乏、挫折、嫉妬、煩悩など、人間の持つ「業」を描き続けた男の墓は、静岡県駿東郡の冨士霊園「文學者之墓」にある。ここには、名前・生没年・代表作『赤目四十八瀧心中未遂』が刻まれている。

by oku-taka | 2023-10-09 01:24 | 文学者 | Comments(0)