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大浦みずき(1956~2009)

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大浦 みずき(おおうら みずき)

女優
1956年(昭和31年)〜2009年(平成21年)

1956年(昭和31年)、詩人で作家の阪田寛夫の次女として、東京都中野区に生まれる。本名は、阪田 なつめ。小学校4年生からバレエを習い、12月公演の「くるみ割り人形」の子ねずみの役が初舞台となった。父が大の宝塚ファンで、小さい頃から「宝塚に入れるぞ」と小言のように言われていたが、宝塚音楽学校受験を決心したところ、当初はなぜか父親から反対された。最終的に中学卒業を条件に1回だけの受験を認められ、試験に合格。1974年(昭和49年)、60期生として宝塚歌劇団に入団。入団時の成績は3番。芸名は父の小中学校時代の同級生で朝日放送の同僚としても親交の深かった作家・庄野潤三が命名した。同年、『虞美人』で初舞台を踏む。1975年(昭和50年)に雪組、1979年(昭和54年)には星組へ移り、同年『アンタレスの星』新人公演に主演。長身を生かしたダンスで、宝塚史上に残るダンスの名手として鳴らし、宝塚の「フレッド・アステア」と評される。1983年(昭和58年)、花組の男役準トップとなり、同期の磯野千尋や朝香じゅん、瀬川佳英、幸和希、安寿ミラ、真矢みきらと共に当時の花組トップ高汐巴を盛り立てた。1984年(昭和59年)、宝塚70周年記念式典で全生徒が合唱した『宝塚賛歌』を作詞。1987年(昭和62年)、膝の半月板を損傷し、手術により長期休演を余儀なくされる。懸命のリハビリで故障を克服し、怪我以前よりもダンスを磨いて舞台に復帰。1988年(昭和63年)の『キス・ミー・ケイト』でトップスターに昇格した。以降は、ひびき美都を相手役に花組トップスターを務め、「ダンスの花組」と呼ばれる一時代を築いた。その後も、『会議は踊る』(1989年)、『ベルサイユのばら』(1990年、フェルゼン役)などで名シーンを残し、いずれも代表作となった。1989年(平成元年)には歌、劇団のニューヨーク公演でメインを張った。1991年(平成3年)、『ヴェネチアの紋章』を最後に宝塚を退団。退団後も舞台を中心に女優として、またダンス公演でも活躍。1992年(平成4年)、宝塚のニューヨーク公演において、海外公演で初の"メインが(現役生徒でなく)歌劇団卒業生"という異例の大役を任ぜられたが、現役時代と遜色ないステージをこなした。1993年(平成5年)、米歌手スティービー・ワンダーのオリジナル曲をタイトルにしたシングル『MY LOVE』で歌手デビュー。1997年(平成9年)よりタンゴ歌手としても活動し、リサイタルも開催した。また、エッセイストとしても文才を発揮し、『夢・宝塚』『なつめでごじゃいます!』『と・て・ち・て・た』などの著書がある。2004年(平成16年)、舞台生活30周年の集大成として、ソング&ダンス・ショー『Dream by Dream』を上演。2005年(平成17年)、菊田一夫演劇賞を受賞。2006年(平成18年)、『ナイン』『NEVER GONNA DANCE』で読売演劇大賞の優秀女優賞を受賞。2008年(平成20年)8月、脇の痛みを覚えるも、骨か筋肉がおかしいと考え、整体に通う。しかし、一向に体調が良くならなかったことから、9月下旬に病院へ受診。このときは線維筋痛症と診断され、精神安定剤や睡眠薬を処方されましたが、痛みと息苦しさは悪化していった。11月下旬、姉の勧めで別の病院を受診したところ、胸に4リットルもの水がたまっていたことから、そのまま入院。その後、肺癌と診断され、既に手術ができないほど進行していた。マスコミには、肺を覆う膜の間に水が溜まって炎症が起きる胸膜炎と発表し、出演を予定していたミュージカル『スーザンを探して』と舞台『この森で、天使はバスを降りた』を降板。以降は抗がん剤治療と療養に専念してきた。2009年(平成21年)3月、阪田寛夫メモリアルコンサートに出演し、父の手紙を朗読。終演後、ファンに癌であることを打ち明けた。それでも、抗がん剤を点滴から経口剤に変更したのを機に退院。回復が見られたため、翌年1月に赤坂レッドシアターで公演予定のダンスシアターGIGEI-TEN3『なつめの夜の夢』に声の出演を決めていた。しかし、8月に症状が悪化して入院。11月14日午前7時、肺癌のため東京都内の病院で死去。享年53。没後の2014年(平成26年)、宝塚歌劇団100周年を記念して設立された宝塚歌劇の殿堂の最初の100人のひとりとして殿堂入りを果たした。


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本名の「なつめ」としても親しまれた、宝塚歌劇団の花組トップスター・大浦みずき。宝塚随一の名ダンサーとして高く評価され、数々の名作・名場面を作り上げた。美しくしなやかなそのダンスは、宝塚の「フレッド・アステア」と評され、「ダンスの花組」と呼ばれる礎を築いた。中でも、宝塚退団後に再び歌劇団の一員としてニューヨーク公演に参加したことは、宝塚を退団した元生徒が宝塚の公演に出るという後にも先にもない出来事であり、いかに大浦が実力者であることを示すエピソードとなった。長身と圧倒的な存在感に魅せられた人は多く、今なお「大浦みずきに憧れて宝塚に入った」と語る後輩は多い。そんなカリスマ・大浦みずきの墓は、父・阪田寛夫と同じ静岡県駿東郡の冨士霊園「文學者之墓」にある。ここには、名前・生没年・代表作『夢・宝塚』が刻まれている。

by oku-taka | 2023-10-09 01:03 | 俳優・女優 | Comments(0)