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川崎長太郎(1901~1985)

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川崎 長太郎(かわさき ちょうたろう)

作家
1901年(明治34年)〜1985年(昭和60年)

1901年(明治34年)、神奈川県足柄下郡小田原町(現在の小田原市)に生まれる。小学校を卒業後、土木技師になろうと考えて、朝鮮半島に渡り京城で工事の雑役夫として働くが、脚気を患い小田原に帰る。1917年(大正6年)、神奈川県立小田原中学校に入学するも、図書館の本を盗んだことが発覚し退学となる。その後、家業を手伝い、箱根の山を徒歩で登り下りする魚の配達の業務に就く。そのうちに小田原電気鉄道(後の箱根登山鉄道)が開業すると、配達の行き帰りの乗車中に小説や文芸誌などを読むようになり、文学熱が高まっていく。1920年(大正9年)、小田原の民衆詩人・福田正夫の家に出入りするようになる。1921年(大正10年)、小田原にやってきたアナーキストの文筆家・加藤一夫のもとに出入りし、影響を受ける。加藤を監視していた警察の差金で、実家の取引先であった箱根の旅館から出入り差し止めとなる。1922年(大正11年)、加藤に連れられて上京し、加藤の人脈で知り合った岡本潤・萩原恭次郎・壺井繁治らとともにアナーキズムの詩雑誌『赤と黒』を発刊するが、すぐに廃刊となる。東京での生活が行き詰まったため小田原に帰り、アナーキズムから離れて私小説でやっていくことを決意する。1923年(大正12年)、東京に出て、新聞社から文士講演会の要約や文士訪問の原稿の仕事をもらって収入を得るようになり、仕事を通じて文学の師となる徳田秋声、宇野浩二と面識を持つ。1925年(大正14年)、徳田の推輓で「無題」が雑誌『新小説』に掲載されて文壇デビューをする。「無題」を新聞の学芸欄で高く評価した宇野に可愛がられて薫陶を受け、田畑修一郎、牧野信一を紹介される。小説や随筆の執筆だけで生活しようとするが、上手くいかず、下宿代が払えなくなる。一時、徳田の家に居候をするが、プロレタリア文学の台頭で徳田にも仕事が無い状況であり、居辛くなって小田原に帰る。同年、小田原のカフェの女給と恋仲になり、名古屋に駆け落ちし、その後紆余曲折を経て、東京で所帯を持つ時期もあったが、経済的に困窮して最終的には破局する。1933年(昭和8年)、田畑修一郎、嘉村礒多らと宇野浩二を囲む年一回の懇親会「日曜会」を始める。1934年(昭和9年)、初めての著書『路草』を上梓するが、文学だけでは生活は成り立たず、通信社の記事執筆で収入を得る。「文芸復興」のこの時期は同人雑誌の創刊が相次ぎ、『雄鶏』(後に『麒麟』と改題)『世紀』『木靴』『文藝生活』の同人となっている。1935年(昭和10年)、「余熱」が第2回芥川賞の候補となる。1937年(昭和12年)には『朽花』を上梓したが、日中戦争が始まると国策文学の時代になり、文学的な居場所がなくなっていき、1938年(昭和13年)通信社の匿名文芸時評の仕事を携えて小田原に戻る。小田原に戻ると、実家の漁師の網や魚箱をいれるためのトタン葺きの物置小屋で生活をするようになる。物置小屋に畳を二畳敷いてその上に座り、ビール箱を机のかわりにして執筆した。電気や水道は引かれておらず、洗面などは市設の公衆便所で済ませて、冬は蝋燭で暖をとった。 物置小屋暮らしを始めてから結婚するまでの間、小田原のだるま料理店の常連となり、日に一度、ちらし丼を食べた。小田原市立図書館に通い雑誌を閲覧し、また友人で元文学志望の小田原駅前書店の店主から雑誌を借り受け、通信社の文芸時評の記事を仕上げる。家督を継いだ弟の家に出向いて、中風で寝たきりだった母を看病していたが、1944年(昭和19年)に痰を喉に詰まらせて亡くなる。通信社から請け負っていた文芸時評の仕事を失い、ほとんど無収入で、パンや弁当の折詰を万引きして食いつなぐような困窮した生活をおくっていたところ、海軍運輸部に徴用され、横須賀で軍用人足として力仕事をする。 その後、小笠原父島に派遣されるが、ほどなく敗戦を迎えて内地に帰還し、小田原の物置小屋に戻る。戦後、出版業界が活況になると、小説の執筆依頼が増え始める。物置小屋から小田原の赤線地帯である抹香町へ通い、そこでの娼婦との触れ合いをもとにして「抹香町もの」と呼ばれる一群の作品を書き始めると好評を博し、流行作家となる。1954年(昭和29年)、『抹香町』『伊豆の街道』を出版し、宇野浩二を囲む「日曜会」の主催で東京ステーションホテルで大規模な祝賀会が開かれる。特異な生活をおくる川崎にジャーナリズムは好奇の目を向け、「長太郎ブーム」が起きる。物置小屋に人妻、女給、未亡人、妾などさまざまなファンの女性が来訪するようになり関係をもつ。彼女たちとの交わりを小説の題材にしていくが、徐々に人気に陰りがでる。1958年(昭和33年)には売春防止法が完全施行され、抹香町が消えた。1962年(昭和37年)、物置小屋を来訪してきた女性たちのうちの一人の30歳年下の女性と結婚して、小田原市中里の旅館つるやの別棟に間借りする。1967年(昭和42年)、軽い脳出血で倒れ、右半身不随となる。1971年(昭和46年)、原稿依頼が途絶えかけ、貯金を取り崩して生活していたところ、文芸誌『海』の編集長の訪問を受け、執筆を求められる。これをきっかけにして小説の雑誌掲載が増えて、1972年(昭和47年)の『忍び草』以降、出版も盛んになる。また、川崎を信奉する漫画家のつげ義春経由で、”川崎長太郎ブーム”が若者の間に起き、物置小屋に住む最底辺の生活を描いてきた川崎は、日本のヒッピーの元祖ともみられた。1977年(昭和52年)、第25回菊池寛賞を受賞。1980年(昭和55年)、河出書房新社から『川崎長太郎自選全集』(5巻)が刊行され、翌年の第31回芸術選奨文部大臣賞を受賞する。1983年(昭和58年)、脳梗塞で倒れて小田原市立病院に入院。以後闘病生活を送り、1985年(昭和60年)11月6日、肺炎のため小田原市立病院で死去。享年83。


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清貧を貫き、私小説に徹した作家・川崎長太郎。『抹香町』『鳳仙花』など、私娼窟に通う初老の男と娼婦との触れ合いを哀感たっぷりに描いた「抹香町もの」でブームとなり、後に漫画家のつげ義春や作家の西村賢太といった文化人からも愛された。しかし、彼を一躍有名にしたのは、小田原市万年町の海岸近くにあった実家の物置小屋での生活であった。黒いコールタール塗りのトタン張りの小屋ぐらしは、37歳から20年にわたって続けられ、机代わりのビール箱とローソクの灯りによって一連の作品は生まれていった。好奇の目にさらされながらも、自らの道を歩み続けた川崎長太郎の墓は、静岡県駿東郡の冨士霊園にある。貧しさに身を置いた彼らしく、作家の丹羽文雄が日本文藝家協会会長時代に「貧乏な作家にも墓を」と建立した「文學者之墓」に納骨され、名前・生没年・作品『谷間』が刻まれている。

by oku-taka | 2023-10-08 23:03 | 文学者 | Comments(0)