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水上勉(1919~2004)

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水上 勉(みずかみ つとむ)

作家
1919年(大正8年)〜2004年(平成16年)

1919年(大正8年)、福井県大飯郡本郷村(現在のおおい町)に生まれる。9歳のとき、当時京都の臨済宗寺院相国寺塔頭で瑞春院の住職になった山盛松庵が、若狭で酒井家賞を受けた子供から小僧をとろうとしており、水上が選ばれる。貧困だったことからそれに応じ、京都の伯父の元に送られた後、10歳の時に正式に瑞春院に入った。得度して水上集英に改名し、室町小学校を卒業。柴野中学に通う。しかし、修行生活の厳しさに13歳の時に出奔。その後、連れ戻されて等持院に移り、僧名承弁に改名。1933年(昭和8年)、旧制花園中学校(現在の花園中学校・高等学校)3年に編入。等持院の蔵書の小説本を無断で貪り読み、文学への関心を持った。等持院住職の二階堂竺源は映画監督の衣笠貞之助と親しく、また等持院には東亜キネマの撮影所があったことから撮影の手伝いもさせられ、これらの経験が後に『雁の寺』、『金閣炎上』の執筆に生かされた。中学4年の時に『都新聞』へ投稿するようになり、卒業後は寺を出て伯父の下駄屋で働き、むぎわら膏薬の西村才天堂の行商を経て、1937年(昭和12年)立命館大学文学部国文学科に入学。同年に府庁で満蒙開拓義勇軍への勧誘を行う仕事に就いた後、満州にある国際運輸社の社員となって奉天に渡るが、翌年に結核を患い、帰国療養として若狭に戻る。このとき文学書を読み漁り、水上努の名で『月刊文章』『作品倶楽部』に投稿。『月刊文章』で選外佳作となって初めて文章が活字になった。1940年(昭和15年)、父が駒込で勝林寺を蓬莱町から染井へ移築する作業や、動坂目赤不動(南谷寺)建築のために、東京で仕事をしていたのを頼って上京。しかし、父はすぐ京都に帰ったため、『作品倶楽部』選者の丸山義二を頼って日本農林新聞に入社。丸山の紹介で同人誌「東洋物語」に参加し、そのメンバーの三島正六の紹介で『報知新聞』に入り、そこで和田芳恵の知遇を得て学芸社に移って文芸書出版の仕事に就き、海音寺潮五郎や武者小路実篤を担当した。その後、印刷会社を経て三笠書房に入社。1943年(昭和18年)、映画配給会社に移るが、東京都からの助成金を得て郷里に疎開。大飯郡青郷国民学校高野分校に助教として勤める。結核のために第二国民兵役だったが、1944年(昭和19年)には召集を受け、京都伏見深草中部43部隊の輜重隊に所属。その後召集解除となって青郷国民学校に戻り、終戦を迎えた。戦後9月に学校を退職して東京へ出て、神田で妻の叔父が経営する工場に間借りする。1946年(昭和21年)、虹書房を興し、学芸社の同僚だった山岸一夫とともに雑誌『新文藝』を創刊。石川啄木、樋口一葉などの作品を刊行し、水上若狭男の筆名で短編小説を掲載した。この頃、信州松本に疎開中の宇野浩二に執筆依頼に行き、宇野がかつて「水上潔」の変名を使っていたことで知遇を得、宇野が東京本郷に移ってからも腱鞘炎を患っていた宇野の口述筆記を長く行なうようになって、文学の師と仰ぐようになり、『苦の世界』なども刊行する。また、宇野に巖谷大四を紹介されて、生活のためにあかね書房や小峯書店で童話や少年少女もの、童話の創作や、「家なき子」「きつねの裁判」などの翻訳ダイジェスト、偉人伝などを執筆した。『新文藝』は資力や印刷事情のために3号で休刊。1947年(昭和22年)に虹書房は解散し、一時文潮社の嘱託として出版企画に参加した。1948年(昭和23年)、文潮社から長編の身辺小説『フライパンの歌』を刊行。宇野浩二の序文や「昭和の貧乏物語」という文句の広告もあって良い売れ行きを示した。これに大映が映画化を申し込み、5万円の手付金をもらったが、予定していた監督の島耕二が新東宝に移籍したため企画は中止された。さらに妻が家を出て行くなどで銷沈して、その後の原稿依頼もなく、また体調も思わしくなく、3歳の幼児を抱えて生活に追われ、文筆活動からは遠ざかることになる。山岸一夫の紹介で日本繊維経済研究所の月刊誌『繊維』の編集の仕事に就き、次に山岸と週刊の「東京服飾新聞」を発行するが、これも不況で立ち行かず、洋服生地の行商を始める。この頃、山岸の紹介で西方叡子と再婚。叡子が川上宗薫の義妹と高校・短大の同級生だった縁で知己となり、川上の参加していた同人誌「半世界」にも顔を出すようになり、また菊村到も紹介され、小説執筆を促された。1958年(昭和33年)、服の行商の電車の中で松本清張『点と線』を貪り読み、これに刺激されて『繊維』時代の経験から日本共産党の「トラック部隊」を題材にした推理小説を書き、川上宗薫の紹介で河出書房の編集者坂本一亀の手に渡り、1959年(昭和34年)に『霧と影』の題で出版。実際にあった繊維業界の取込み詐欺事件に材をとった社会派推理小説として、宇野浩二の序文と、菊村到、吉行淳之介の推薦文の帯を付けた初版3万部は1ヶ月で売り切れ、一躍流行作家となった。同年、ニッポン放送のラジオドラマの企画で委嘱を受けた多岐川恭ら若手推理作家の親睦団体「他殺クラブ」に参加。1960年(昭和35年)、当時「水俣奇病」として原因が未解明のままだった水俣病を題材にした『海の牙』を発表し、『霧と影』に続いて直木賞候補となる。1961年(昭和36年)、第14回日本探偵作家クラブ賞を受賞し、社会派推理作家として認められた。しかし、水上自身は推理小説に空虚感を感じており、『うつぼの筐舟』の頃からは「人間を描きたい」という気持ちから、社会派的というよりは純文学的な推理小説を書くようになり、自分がよく知る禅寺の人間たちを題材にしつつ推理小説の体裁を取り入れた『雁の寺』を執筆。主人公の悲惨な生育、その母性思慕とエロス、僧侶の実生活の腐敗などを推理小説仕立てのなかに織り込んだ同作は、吉田健一の激賞により注目され、同年に第45回直木賞を受賞した。その後、『越後つついし親不知』『五番町夕霧楼』『越前竹人形』など続々と作品を発表。主に北陸や京都などを舞台にとった、貧しい庶民の生活を題材にした暗い叙情的な作品は「水上節」と称された。1963年(昭和38年)には洞爺丸事故を題材にした社会派推理の大作『飢餓海峡』が大きな話題を呼んだ。1966年(昭和41年)から直木賞選考委員となる。1971年(昭和46年)、『宇野浩二伝』で菊池寛賞を受賞。1974年(昭和49年)、日本文芸家協会の理事に就任。1975年(昭和50年)、井上靖のはからいで訪中作家団に参加。以後もたびたび訪中し、中国の作家とも交流を深め、また水上作品の中国語訳も増え、日中文化交流協会の常務理事も務めた。1975年(昭和50年)、『一休』で谷崎潤一郎賞を受賞。1976年(昭和51年)、短編『寺泊』で川端康成文学賞を受賞。1977年(昭和52年)頃、軽井沢に竹人形の工房を作り、人形劇の劇団「竹芸」を始める。1979年(昭和54年)、金閣寺放火事件に材をとり、犯人の生い立ち、環境、家族関係などを、精密な調査を軸に、慈愛の目で追ったドキュメントタッチの小説『金閣炎上』を発表。1984年(昭和54年)、『良寛』で毎日出版芸術賞を受賞。1985年(昭和60年)、劇団「竹芸」を若狭に移し、劇場に図書館を併設した若州一滴文庫を設立した。同年、芥川賞選考委員となる。1986年(昭和61年)、日本芸術院会員に選出。1989年(平成元年)、心筋梗塞で倒れ、集中治療室に三日間入院。心臓の三分の二が壊死した。心筋梗塞後は軽井沢の別荘を売って、長野県北御牧村に家を買い、仕事場を移した。 また、万年筆での原稿執筆がつらくなり、ワープロを利用した執筆を始め、その後はMacintoshを利用するようになり、電子メールも使い始める。また大阪のかんでんエルハートの障害者工場に触発されて、小諸市の仕事場にMacintoshを複数台購入し、「勘六山電脳小学校」と名づけて障害者のための訓練場として開放しようとしていた。 1998年(平成10年)、文化功労者に選出。1999年(平成11年)、左目を眼底出血と網膜剥離で手術し、失明に近い状態になる。次いで右目を白内障で手術し、半年間入院を余儀なくされる。2000年(平成12年)、脳梗塞を発症。その後は、音声入力ソフト「ビアボイス(ViaVoice)」を活用した原稿執筆も行うようになった。2001年(平成13年)、蘇曼殊の詩に触発されて書いた長編小説『虚竹の笛 尺八私考』で親鸞賞を受賞。2004年(平成16年)9月8日午前7時16分、肺炎のため長野県東御市の仕事場で死去。享年85。没後、正四位に叙され、旭日重光章を追贈された。


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戦後を代表する作家の一人である水上勉。厳しい禅寺修行の体験を元にした『雁の寺』をはじめ、『五番町夕霧桜』『越前竹人形』『飢餓海峡』などヒット作を連発。貧困と人間の愛憎をテーマに書き上げた作品群の多くが映画化やドラマ化された。晩年には自らの作品を竹人形で演じる劇団を立ち上げたが、心筋梗塞、脳梗塞、失明と、様々な病に襲われた。病気によって身体の自由を失うも、そこから何度も立ち上がり、清貧の世界を追い求め続けた作家の墓は、静岡県駿東郡の冨士霊園「文學者之墓」と、長野県須坂市の浄運寺にある。前者には、名前・生没年・代表作『雁の寺』が刻まれている。後者は、息子で作家の窪島誠一郎によって建立され、福井県の足羽山で採掘される笏谷石の墓には「水上勉・窪島誠一郎」とあり、背面には「名も無き父子ここに眠る 水上勉・窪島誠一郎」と刻まれている。

by oku-taka | 2023-10-08 22:48 | 文学者 | Comments(0)