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丹羽文雄(1904~2005)

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丹羽 文雄(にわ ふみお)

作家
1904年(明治37年)〜2005年(平成17年)

1904年(明治37年)、三重県四日市市北浜田に生まれる。父は浄土真宗専修寺高田派の崇顕寺で住職を務め、母は文雄が4歳のときに旅役者の後を追って出奔した。この母への思慕と追憶が、文雄の作品世界に投影されている。母の出奔は、婿養子に来た父が、祖母と男女関係を結んでいたからである。この原体験が、丹羽をして人間の業を見つめる作家となし、その救いを浄土真宗に求める結果となった。その後、三重県立富田中学校(三重県立四日市高等学校の前身校の1つ)を経て、第一早稲田高等学院に入学。本来は父の跡を継いで僧侶となるために、浄土真宗系の上級学校に進学するべきところであったが、すでに文学者を志望していたため、父や檀家には、仏教に関連の深い哲学科に進学するためと偽って、同校へ進んだ。高等学院在学中に、上級生の尾崎一雄と知り合い、文学面でも大きな感化を受け、さらに尾崎の紹介で火野葦平らが発行していた同人誌『街』に加わり、小説「秋」を寄稿した。『街』の廃刊後は、尾崎らと同人誌『新正統派』を創刊し、精力的に小説を発表した。1929年(昭和4年)、早稲田大学文学部国文学科を卒業し、生家の寺で僧職に就く。しかし、同人誌『新正統派』に発表した小説「朗かなある最初」が永井龍男によって評価され、その依頼で書いた「鮎」が文壇で注目され、僧職を捨てて上京。『中央公論』や『文藝』の新人特集に『贅肉』『百日紅』が相次いで掲載され、新進作家として注目された。日中戦争では日本文学報国会の前身となる漢口攻略戦の「ペン部隊」役員に選ばれるなど貢献を果たしたが、 1941年(昭和16年)8月の内閣情報局による大量発禁処分では、丹羽の小説も「風俗壊乱の恐れ」のある一つとして槍玉にあがった。 さらに太平洋戦争が始まると、海軍の報道班員として重巡洋艦「鳥海」に乗り組み、第一次ソロモン海戦に従軍。その見聞を小説『海戦』にまとめた。同作で、中央公論賞を受賞。戦後は『厭がらせの年齢』『哭壁』 をはじめとする風俗小説が人気を博し、一躍流行作家となる。一方、評論家の白井吉見や中村光夫が風俗小説を誹謗したことに、最近小説家と批評家のあいだに軋轢や対立が生じていると批判。これに対して中村は、丹羽の態度を非難した上でふたたび風俗小説を攻撃し、風俗小説論争を延々と展開した。1953年(昭和28年)、新興宗教をテーマにした『蛇と鳩』で第6回野間文芸賞を受賞。1950年代には同人誌『文学者』を主宰し、瀬戸内寂聴、吉村昭、津村節子、富島健夫、中村八朗たちを育成した。1956年(昭和31年)日本文藝家協会理事長に就任。1961年(昭和36年)には会長を兼任した。同年、『顔』で毎日芸術賞を受賞。1965年(昭和40年)、日本芸術院会員に選出。また、描写と説明から人物の描き方、題の付け方、あとがきの意義、執筆時に適した飲料まで、自身の作品を例に教え諭した『小説作法』を発表。これがベストセラーとなり、多くの文学青年に読まれた。一方、執筆に行き詰りを感じていた時に亀井勝一郎から「(丹羽の小説は)親鸞から逃れようとしているが、結局は親鸞の足元で遊んでいる」と指摘されたことをきっかけに自らの宗教観について考え始め、後に『親鸞』『蓮如』などの宗教者を描いた小説を多く残した。1967年(昭和42年)、『一路』で読売文学賞を受賞。1970年(昭和45年)、『親鸞』で仏教伝道文化賞を受賞。その前年に日本文藝家協会理事長を、1972年(昭和47年)に同会会長を退き、長年の功績を讃えて1974年(昭和49年)に菊池寛賞を受賞した。1977年(昭和52年)、文化功労者に選出。同年、文化勲章を受章。1983年(昭和58年)『蓮如』で野間文芸賞を受賞。1986年(昭和61年)からアルツハイマー型認知症の症状が表れ、翌年の夏に老人医療センターで診てもらったところ、アルツハイマーの初期と診断される。そのため、多数務めていた役職を整理し、1990年(平成2年)には表舞台から退いた。1997年(平成9年)、娘・本田桂子が瀬戸内寂聴のすすめで、病気の経緯と11年に渡る介護についての手記を『婦人公論』に公表し、『父・丹羽文雄 介護の日々』を出版。これが話題となり、桂子は献身的な介護生活を続けながら、反響を受け全国各地に講演を行った。一方で、丹羽本人の症状は徐々に進み、1998年頃(平成10年頃)には桂子のことも分からなくなった。2000年(平成14年)、介護保険スタートにより、「要介護4」の認定を受ける。その頃の丹羽は、一日中ソファーに座ってうたた寝しているか、じっとしていることが多くなった。2001年(平成13年)4月、桂子が虚血性心疾患で急逝。以降は孫たち等による介護を受けていた。2005年(平成17年)4月20日午前0時25分、肺炎のため東京都武蔵野市の自宅で死去。享年100。没後、従三位に叙される。


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男女の愛憎や家族の葛藤を赤裸々に描き、「非情の作家」と評された丹羽文雄。婿養子だった父と祖母の不倫関係、母と旅役者の駆け落ちなど、その世界観は複雑な生い立ちによって形成された。家族の恥を赤裸々に曝け出し、人間の罪・業・煩悩を描き続けた。また、各種文学賞の選考委員や日本文芸家協会の会長と理事長を歴任したほか、「文学者」を主宰して後進の育成にも尽力するなど、その存在はまさに文壇の大御所であった。晩年はアルツハイマーを発症し、介護にあたっていた娘に先立たれるなど、老境にして辛い運命に直面することとなってしまった。発症から約18年、100歳という長い人生に終止符を打った丹羽だが、表舞台を退いてから長い期間を経た為なのか、その訃報の扱いはかつての人気作家及び文壇の大御所と呼ばれた人とは思えないくらい静かなものであった。5000冊以上の著書を発表し、アルツハイマーを患った晩年のあるときに「丹羽文雄、丹羽文雄、丹羽文雄…」と原稿に書くなど、作家としての執念を燃やし続けた丹羽文雄の墓は、静岡県駿東郡の冨士霊園にある。日本文藝家協会の会長時代に「貧乏な作家にも墓を」と建立した「文學者之墓」に自身も納骨されており、石塀には「日本に生まれ 日本の文学に貢献せる人々の霊を祀る」の文を日本文藝家協会会長として石塀に刻んでいる。また、離れた場所に、名前・生没年・代表作『鮎』が刻まれている。

by oku-taka | 2023-10-08 22:26 | 文学者 | Comments(0)