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芹沢光治良(1896~1993)

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芹沢 光治良(せりざわ こうじろう)

作家
1896年(明治29年)〜1993年(平成5年)

1896年(明治29年)、静岡県駿東郡楊原村大字我入道(現在の沼津市我入道)に生まれる。生家は網元だったが、1900年(明治33年)に父が天理教に入信し、熱心な天理教信者だった母と共に家業を捨てて無所有の伝道生活に入ったため、残された光治良は叔父夫婦と祖父母に育てられる。小学校入学以前から孔子の『論語』を暗唱できるほどの頭の良さから神童といわれた。一方、我入道では男子は漁師になる慣習であったが、船酔いのため漁師にはなれず、祖父のすすめる商家の奉公人にもならずに県立沼津中学校(現在の県立沼津東高等学校)へ進学。在学中は特待生で、中学校に新設された行啓記念館の図書室係を務めた。この頃、文芸雑誌『白樺』を読み、フランス文化に憧れるようになる。1915年(大正4年)、沼津中学校を卒業し、沼津町立男子小学校の代用教員となる。1919年(大正8年)、第一高等学校仏法科を卒業。1921年(大正10年)、高等文官試験行政科に合格。1922年(大正11年)に東京帝国大学経済学部を卒業し、農商務省に入省する。しかし、1925年(大正14年)に農商務省を辞任。新妻を伴ってフランスのパリ大学に留学し、ソルボンヌ大学に入学。金融社会学のシミアン (François Simiand) に学び、貨幣論を研究した。しかし、パリ大学卒業間際に肺結核で倒れ、フランスやスイスの高原療養所で療養につとめる。1928年(昭和3年)、日本に帰国。1930年(昭和5年)、療養中の体験に基づいた作品『ブルジョア』が、「改造」の懸賞小説に一等当選。『東京朝日新聞』において、正宗白鳥らの絶賛を受けた。その後、数多くの作品を文芸雑誌、新聞や婦人雑誌などに寄稿し、精力的に執筆。一方、中央大学講師として貨幣論を教えるが、1931年(昭和6年)4月から6月にかけて東京朝日新聞夕刊に『明日を逐うて』を連載した頃から、大学では光治良の行動が問題視され始め、1932年(昭和7年)4月に中央大学を辞職。以降は作家業に専念し、『椅子を探す』、『橋の手前』などを発表。そのリアルな良心的作風で同伴者作家と目された。1935年(昭和10年)、日本ペン倶楽部(後の日本ペンクラブ)の結成に参加。戦後には日本代表としてしばしば海外に渡り、後に副会長も務めた。1942年(昭和17年)、戦意高揚文学一色の時代に、敢えて異郷での愛と死をメインテーマとする『巴里に死す』を「婦人公論」に1年間連載。読者の評判は高かったが、「婦人公論」の編集長は軍の検閲係から「戦力増強に資しない」と毎月連載中止を勧告されていた。しかし、編集長は12月号までそのことを芹沢には告げず、最終回まで連載を続けさせた。戦後『巴里に死す』は森有正によってフランス語訳され、1953年(昭和28年)にフランスのロベール・ラフォン社から出版され、1年で10万部を売り上げるベストセラーとなった。これにより、1956年(昭和31年)にベルギーの読者クラブ賞次席を獲得し、1959年(昭和34年)にはフランス詩人連盟からフランス友好国際大賞を授与されるなど、海外での評価が高まった。同年、天理教の始祖である中山みきの伝記『教祖様』を刊行。1962年 (昭和37年)、自伝的長編『人間の運命』を刊行。同作は大変な反響を呼び、1965年(昭和40年)に芸術選奨文部大臣賞を受賞した。同年10月、 川端康成の後を受け、第5代日本ペンクラブ会長に就任。1969年(昭和44年)、『人間の運命』全14巻により日本芸術院賞を受賞。1970年(昭和45年)には日本芸術院会員となる。同年、生誕地である沼津市我入道に芹沢文学館(現在の沼津市芹沢光治良記念館)が建設される。一方、日本ペンクラブ会長として、社会的な活動として言論の自由や表現の自由、文筆家の権利擁護などの実践活動をしていたが、1974年(昭和49年)の金芝河減刑嘆願事件に端を発したペンクラブ批判で会長を辞任した。同年、フランス芸術文化勲章コマンドール章を受章。1986年(昭和61年)、『神の微笑』を刊行。以降「神シリーズ」と呼ばれる一連の作品を毎年一冊ずつ書き下ろし、神と魂の救済について深く追究した。1993年(平成5年)3月23日、普段通りの原稿執筆の後、午後7時に老衰のため東京都中野区東中野の自宅で死去。享年96。


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日本と西洋を舞台に、人間の生と死、愛の問題を扱った作家・芹沢光治良。知性と抒情の調和したフランス的な作風で、自身の在仏経験に基づく自伝的小説を数多く発表。特に戦時下に発表された『巴里に死す』はフランス語訳され、国際的な評価を得た。日本ペンクラブ会長も務め、世界的にも名の知れた作家であったが、現代日本においては今ひとつ知名度の低い作家となってしまった。かつて両親が天理教に入信し、全財産を神に捧げ、自身は半ば捨てられた子同然の扱いを受けてきたが、晩年には「文学はもの言わぬ神の意思に言葉を与えることだ」との信念に拠り、"神"を題材にした一連の作品で独特な神秘的世界を描いた芹沢光治良。96年の長きにわたる生涯を終えた作家の墓は、静岡県沼津市の沼津市営天神洞墓地にある。墓には「芹沢光治良/その家族の墓」とあり、「古ごろも ここに納めて 天翔けん 一九八二年 八十五翁 光治良」と書き添えられた矩形碑の上部には大版の本が開かれ、「自己確立のために 東大 パリ大学に遊んだが 病を得てから 自ら求めて学んだ イエスに生と愛を 仏陀に死と生を 中国の聖賢に道を 科学者の畏友ジャックに 大自然の法則と神の存在を かくして孤独に生きて ひたすらにただ書いた 光治良」と刻む。墓誌は側面にあり、墓域入口には芹沢の略歴が刻まれた碑が建つ。

by oku-taka | 2023-09-17 12:27 | 文学者 | Comments(0)