人気ブログランキング | 話題のタグを見る

井上靖(1907~1991)

井上靖(1907~1991)_f0368298_12005136.jpg

井上 靖(いのうえ やすし)

作家
1907年(明治40年)〜1991年(平成3年)

1907年(明治40年)、北海道上川郡旭川町(現在の旭川市)に生まれる。1908年(明治41年)、父が韓国に従軍したので母の郷里・静岡県伊豆湯ヶ島(現在の伊豆市湯ケ島)に戻る。1912年(大正元年)、両親と離れ、湯ヶ島で戸籍上の祖母(曽祖父の妾)に育てられる。1914年(大正3年)、湯ヶ島尋常小学校(後の伊豆市立湯ヶ島小学校)に入学。1920年(大正9年)、祖母が死去したため、家族の住む浜松に移り、浜松尋常高等小学校に編入学。浜松中学を受験するも落第したため、同年4月に静岡県浜松師範学校附属小学校高等科(現在の静岡大学教育学部附属浜松中学校)へ入学。1921年(大正10年)、静岡県立浜松中学校(現在の静岡県立浜松北高等学校)に首席で入学。在学中にはじめて詩に関心を持つ。1922年(大正11年)、静岡県立沼津中学校(現在の静岡県立沼津東高等学校)に転入。それに伴い、寺や親戚の家に下宿した。1927年(昭和2年)、石川県金沢市の第四高等学校理科(現在の金沢大学理学部)に入学。柔道部に入る。1929年(昭和4年)、柔道部を退部。詩作を始め、井上泰のペンネームで『日本海詩人』に詩を発表し、詩作活動に入る。1930年(昭和5年)、九州帝国大学法文学部(現在の九州大学文学部)英文科に入学。しかし、上京して福田正夫の主宰する詩誌『焔』の同人となる。1932年(昭和7年)、九州帝大を中退し、京都帝国大学文学部哲学科に入学。また、同人雑誌『聖餐』を刊行した。1936年(昭和11年)、京都帝大を卒業。『サンデー毎日』の懸賞小説に『流転』が入選(千葉亀雄賞)し、それが縁で毎日新聞大阪本社に入社。学芸部に配属される。1937年(昭和12年)、日華事変に応召して華北に駐屯したが、病気で内地送還となり社に復帰。以後、宗教記者、美術記者を勤める傍ら、安西冬衛や野間宏など関西の詩人と交わる。戦後は学芸部副部長を務め、囲碁の本因坊戦や将棋の名人戦の運営にもかかわる一方、詩作に力を注ぎ、後の小説のモティーフ、主人公の原型となる作品を多く書く。1948年(昭和23年)、東京本社に転じる。1949年(昭和24年)より再び小説を書き始め、同年『闘牛』で第22回芥川賞を受賞。また、『猟銃』 でも文名を確立した。1951年(昭和26年)、毎日新聞社を退社。以降、勝負師的な行動家の激しい情熱と、それに伴う内面の虚無という鮮かな対照を個性的な人間像を描いた『黯い潮』や『あした来る人』『氷壁』などで新聞小説作家の地歩を固め、物語作家としての才能を示した。その後、歴史小説に新生面を開き、1953年(昭和28年)の『異域の人』『風林火山』 などを経て、鑑真来朝に取材した『天平の甍 』で1958年(昭和33年)に第8回芸術選奨文部大臣賞を受賞した。1959年(昭和34年)、『氷壁」で第15回芸術院賞を受賞。1959年(昭和34年)、『敦煌』『楼蘭』で第1回毎日芸術賞、『蒼き狼』で文藝春秋読者賞を受賞。1961年(昭和36年)、『淀どの日記』で第14回野間文芸賞を受賞。1964年(昭和39年)、『風濤』で第15回読売文学賞を受賞。同年、日本芸術院会員となる。1969年(昭和44年)、 『おろしや国酔夢譚』で第1回日本文学大賞を受賞。また、ポルトガル・インファンテ・ヘンリッケ勲章も受けた。同年、日本文芸家協会理事長に就任。1976年(昭和51年)、文化勲章を受章。1979年(昭和54年)、NHKで企画された『シルクロード -絲綢之路-』に同行取材という形で出演。これにより、1980年(昭和55年)にNHKシルクロード取材班とともに第28回菊池寛賞を受賞した。同年、日中文化交流協会会長に就任。1981年(昭和56年)、シルクロードの取材で第32回NHK放送文化賞を受賞。同年、日本ペンクラブ第9代会長、日本近代文学館名誉館長に就任。同年10月、井上靖がノーベル文学賞の候補との報道が流れ、世田谷の井上宅に報道陣が殺到した。井上は報道陣を自宅の応接間に招き入れ、受賞者が発表されると、集まった一同と残念の杯を上げた。以降、毎年ノーベル文学賞発表の日になると、集まった報道陣を応接間に招き入れて、残念会の酒宴「ノーメル賞」が行われるようになった。報道は年を追うごとに過熱したが、当の井上は「天から石が降ってきて、世界の何十億人の誰かひとりに当たるというのだから、当たると考えるほうがおかしいし恥ずかしいことだ」として、自らの受賞にはまったく期待も望みもしない態度であった。家族からは、賞を期待しているように思われるから報道陣を家に入れないほうがいい、という意見もあったが、相手にとって嫌なことでも取材せざるを得なかった新聞記者時代の経験から、「仕方ないことだ」として、集まる報道陣に対しては一定の理解を示し、丁寧な応対をつづけた。1982年(昭和57年)、利休の死の秘密に取り組んだ『本覚坊遺文』で第14回日本文学大賞を受賞。1986年(昭和61年)、食道癌が発覚。5時間にも及ぶ手術で食堂を摘出した。1988年(昭和63年)、ならシルクロード博覧会総合プロデューサーを務める。同年、肺癌が発覚。コバルト照射による治療を受け、作家活動を継続した。1989年(平成元年)、『孔子』で第42回野間文芸賞を受賞。同年秋頃から体調を崩すようになり、1991年(平成3年)1月29日、急性肺炎のため東京都中央区の国立がんセンターで死去。享年83。


井上靖(1907~1991)_f0368298_12005144.jpg

井上靖(1907~1991)_f0368298_12005220.jpg

井上靖(1907~1991)_f0368298_12005240.jpg

井上靖(1907~1991)_f0368298_12005267.jpg

新聞記者から国民文学作家へと華麗に転身した井上靖。中間小説と言われた恋愛・社会小説から、中央アジアを舞台とした「西域もの」の歴史小説、自己の境遇を基にした自伝的小説、敗戦後の日本高度成長と科学偏重の現代を憂う風刺小説、老いと死生観を主題とした心理小説・私小説など、大衆文学と純文学の世界で幅広く作品を発表。その巧みな構成と詩情豊かな作風は高く評価され、1969年(昭和44年)にはノーベル賞候補にもなったことが近年明らかとなった。没後に『風林火山』が大河ドラマに、『わが母の記』が映画化されるなど、その作品群が今日でも広く愛されている井上靖の墓は、静岡県伊豆市の熊野山共同墓地にある。湯ヶ島温泉「白壁荘」近くの熊野山、農道の終着点にある墓には、自筆で「井上靖/ふみ」とあり、背面に墓誌と妻による井上の略歴が刻まれている。戒名は「峯雲院文華法徳日靖居士」。

by oku-taka | 2023-09-17 12:03 | 文学者 | Comments(0)