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池田満寿夫(1934~1997)

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池田 満寿夫(いけだ ますお)

画家・版画家
1934年(昭和9年)〜1997年(平成9年)

1934年(昭和9年)、旧満州国奉天市(現在の瀋陽市)に生まれる。1945年(昭和20年) 8月、万里の長城がある中国・張家口で終戦を迎え、12月に母の郷里である長野県長野市に引き揚げ。長野市立柳町中学校に在学中の1948年(昭和23年)、担任教師の影響で平安時代の仏像と考古学に興味を抱く。上野の国立博物館を初めて訪れ、縄文人の創造力に感嘆する。また、地元図画教師を対象にした夏期講習会に参加し、モデルの少女を描いた油彩を講師で彫刻家の石井鶴三に褒められて自信をつける。長野北高等学校(現在の長野県長野高等学校)定時制課程に在学中の1951年(昭和26年)1月、第1回全日本学生油絵コンクールで、油彩「橋のある風景」がアトリエ賞を受賞。1952年(昭和27年)3月、高校を卒業。東京藝術大学油絵科を受験するが不合格となり、4月に画家を志して上京。生計のため盛り場で似顔絵を描いて生活費を稼ぐ生活を続けた。1954年(昭和29年)、東京藝術大学彫刻科を2年連続して受験するが不合格。芸大進学を断念し、早稲田大学に入学する。また、自由美術家協会展で油絵が落選し、以後公募展に出品はしなかった。1955年(昭和30年)4月、靉嘔、眞鍋博、堀内康司とグループ「実在者」を結成。同年、私家版による最初の詩集を発行。また、ダダのフォトモンタージュを雑誌で見てコラージュを手掛ける。この頃、11歳年上であった下宿先の娘と結婚したが、3年で破局。しかし、熱心な宗教家であったことから、離婚は一貫して拒否された。1956年(昭和31年)、瑛九の助言で色彩銅版画を始め、エッチング、アクアチントを手掛ける。1957年(昭和32年)6月、第1回東京国際版画ビエンナーレ展公募部門に入選。また、銅版画の技法ドライポイントを一時手掛ける。1958年(昭和33年)、豆本制作を始める。1960年(昭和35年)、H氏賞を受賞した詩人・富岡多恵子と同棲する。同年第2回東京国際版画ビエンナーレ展招待出品『女・動物たち』『女の肖像』『女』で文部大臣賞を受賞し、脚光を浴びた。1961年(昭和36年)2月、岩波書店の『世界』にカットが採用される。以後、同書店『図書』、『朝日ジャーナル』、新聞各紙などに池田のカットが掲載されるようになる。4月、上野・不忍画廊で初の銅版画個展を開催。9月、『月の祭』『大きな女』『女王』で第2回パリ青年ビエンナーレ展版画部門優秀賞を受賞。1962年(昭和37年)10月、『動物の婚礼』『夢の鳥』『花嫁の領地』で第3回東京国際版画ビエンナーレ展東京都知事賞を受賞。ここで国際審査員のウィリアム・S・リーバーマンに認められる。1964年(昭和39年)11月、『夏1』『私は何も食べたくない』『化粧する女』で第4回東京国際版画ビエンナーレ展国立近代美術館賞を受賞。1965年(昭和40年)6月、第6回リュブリアナ国際版画ビエンナーレ展に入賞。7月、富岡多恵子とサンフランシスコ経由ニューヨークへ渡り、8月には東京国際版画ビエンナーレ展の審査員を務めたウィリアム・S・リーバーマンが企画し、ニューヨーク近代美術館で版画展を開催し、日本人として初の個展として話題となる。1966年(昭和41年)、中国系米国人の画家リランと出会いロサンゼルスで同棲を始める。米国と日本を拠点とした制作活動では、メゾチント技法を多用する詩的な主題へ向かったが、突然に奔放なエロティシズムを打ち出し、転機となった。 6月、『楽園に死す』『姉妹たち』『天使のいる風景』で第1回クラクフ国際版画ビエンナーレ展に入賞。同年、棟方志功に次いで版画家としては最高権威の第33回ヴェネツイア・ビエンナーレ展版画部門の国際大賞を受賞。池田の名を国際的にも第一線の芸術家にした。1967年(昭和42年)3月、芸術選奨文部大臣賞を受賞。また、ドイツへ留学し、ヨーロッパ各地の工房で版画制作を試みる。1969年(昭和44年)6月、『靴の裏側』『ブダペストからの自画像』『マリリンの半分』で第8回リュブリアナ国際版画ビエンナーレ展に入賞。1970年(昭和45年)6月、『夢』で第3回クラクフ国際版画ビエンナーレ展に入賞。また、『ファッション』で第17回アメリカ国内版画展に入賞。1972年(昭和47年)2月、初の本格的な画集『池田満寿夫全版画作品集』を刊行。3月、米国イースト・ハンプトンにアトリエを構える。1976年(昭和51年)春、『朝日ジャーナル』連載のエッセイが好評だったことから、個展開催のため帰国した際、雑誌『野性時代』編集長の誘いでホテルに缶詰になり、小説『エーゲ海に捧ぐ』を5日間で執筆。同作で野性時代新人文学賞を受賞し、1977年(昭和52年)7月には芥川賞を受賞。画家が受賞したのは初めてで、池田は“時代の寵児”になった。芥川賞の選考委員会は3時間を超す異例の選考となり、遠藤周作、中村光夫、吉行淳之介が高く評価する一方で、官能的な内容が物議を醸し、永井龍男は本作への授賞に抗議し、芥川賞選考委員を辞任することとなった。その後、本作と短編小説『テーブルの下の婚礼』を下敷きとし、池田自身の監督・脚本により、 1979年(昭和54年)1月に映画「エーゲ海に捧ぐ」が完成。小説では主人公とその妻は日本人で舞台はサンフランシスコであるが、映画では主人公はギリシャ人、舞台はローマに変更。キャストは全員イタリア人となった。このとき、2年前に雑誌の対談で知り合ったヴァイオリニストの佐藤陽子に音楽を依頼。これを機に2人の関係は急接近し、同年には佐藤と共同で個人事務所「M&Y事務所(有)」を設立した。10月、イースト・ハンプトンを引き揚げて帰国。1980年(昭和55年)佐藤と結婚を「宣言」。同年1月には高橋三千綱、戸川昌子らの発起により結婚披露パーティー「新しい門出を祝う会」が開かれたが、正妻は離婚に応じず、佐藤は内縁の妻となった。1982年(昭和57年)、2作目の映画『窓からローマが見える』を手がけるも興行的には失敗した。以降はテレビにも盛んに出演し、人気クイズ番組『日立 世界・ふしぎ発見!』の準レギュラーなどで一般大衆への知名度もアップし、文化人としても活躍。また、佐藤とともにテレビ番組にも出演し、池田の講演と佐藤の演奏をセットにした催しなどを行うなど、おしどり夫婦としても知られた。1983年(昭和58年)、誘われて静岡県南伊豆町にある日本クラフトの岩殿寺窯でロクロを回し、陶芸の世界に魅せられる。8月には静岡県下伊豆町の岩殿寺窯で初めて作陶を行い、翌年の5月に初の陶芸展を東京の髙島屋日本橋店で開催。約120点を発表した。当初は若手陶芸家をアシスタントに雇ってロクロで壺や徳利、皿などを成形するよう指示し、これらをゆがめたり、つぶしたり、組み合わせたりして完成させていたが、1993年(平成5年)、山梨県増穂町(現在の富士川町)、増穂登り窯(太田治孝主宰)内に野焼き風の焼成が可能な薪窯の「満寿夫八方窯」を造ってから作風が大きく変化。耐火度が強い土を使い、高さ1mクラスの大型作品は板状の粘土を使ってタタラ作りの技法や手びねりで制作した。また、陶芸を始めてから西洋美術史一辺倒の池田の芸術思考に変化が起き、西欧の絵画と彫刻に目を向けていた池田は、日本の縄文土器や弥生土器、楽茶碗、織部に改めて関心を抱き始めた。俵屋宗達や尾形光琳の影響を受け、版画でも金色、銀色を使い出した。1994年(平成6年)、代表作「般若心経」シリーズの制作を開始し、高さ約1.5mもの大佛塔6体、佛塔24体、地蔵42体、心経碑34点、心経碗276点、心経陶板54点、佛画陶板30点、心経陶片828点など、2年がかりで般若心経を立体的に造形化した。一方、彫刻については、陶の作品制作を始めた後にブロンズ制作を手掛け、1995年(平成7年)の第2回フジサンケイ・ビエンナーレ現代国際彫刻展には“新人彫刻家”として応募。ブロンズ『犀』が優秀賞を受賞した。国際的に精力的な創作活動を展開し、多忙な生活を送っていたが、1996年(平成8年)12月に脳梗塞でで入院。その後、回復に向かっていた。1997年(平成9年)3月8日午前0時頃、熱海市内の自宅に戻った佐藤陽子を出迎えた際、地震に遭遇。地震に驚いて一斉に飛び出した飼い犬8匹に足を絡まれ、前のめりに転倒した。すぐに救急車を呼び、近くの病院に搬送されたが、意識を取り戻すことなく、午前0時29分に急性心不全のため静岡県熱海市内の病院で死去。享年63。同年4月には、長い期間担当していた多摩美術大学客員教授から、多摩美術大学教授(専任)への就任が内定しており、後進の指導にも本格的に当たろうとしていた矢先の死だった。


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従来の枠にとどまらず多彩に活躍した芸術家・池田満寿夫。版画家として国際的に脚光を浴びた後、画家・彫刻家・陶芸家・作家・映画監督とマルチに活動し、自由奔放に愛とエロスを表現して世界に挑んだ。多岐にわたる活動で繁忙さを極めながらも、その素朴な人柄はメディアで愛され、テレビにも積極的に出演。特に佐藤陽子とのおしどり夫婦っぷりはお茶の間に強い印象を残した。世界的に成功をおさめたアーティストながら、官能的な作風のせいなのか、その芸術活動が正当に評価されることは少なく、生前には悪意に満ちた批評も少なくなかった。そんな池田満寿夫の墓は、静岡県熱海市の医王寺墓地と長野県長野市の正覚院にある。当初は前者の墓に納骨されたが、後に両親の眠る後者の墓にも分骨された。前者の墓は、「空色無 池田満寿夫 佐藤陽子」と刻まれた台石の上に、満寿夫の作品である金色のオブジェ『大地の顔』が置かれ、左側に墓誌が建つ。後者の墓は、洋型の墓に「池田家」とあり、右側に墓誌が建つ。戒名は「満寿院叡彩心酔大居士」。

by oku-taka | 2023-09-10 23:13 | 芸術家 | Comments(0)