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陳建民(1919~1990)

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陳 建民(ちん けんみん)

料理人
1919年(大正8年)〜1990年(平成2年)

1919年(大正8年)、中華民国四川省富順県李橋鎮陽家嘴に生まれる。3歳の時に父親を亡くし、一家は困窮する。8歳の時点で石炭運搬の仕事をしており、小学校に戻る余裕がなく、10歳のとき叔父に連れられて宜賓に住むようになった。幼い頃に母親から料理を習っていたことから、ソバ専門店「海清園」に勤務。やがて料理に興味を持つようになり、12歳のときに京川飯店で見習いとして料理の道に入る。その後、コックとして重慶、台湾、香港などで腕を磨いた後、食堂「麼師」を経て料理人になった。1947年(昭和22年)、国共内戦のため、中国国民党に従うかたちで宜賓を離れ、重慶、武漢、南京、上海へと移動。時局の不安定さを鑑み、友人の紹介で中国から台湾へと渡り、最初は台北の衡陽路にある料理店で職を得た。その後、高雄まで南下して生計を立て、1948年(昭和23年)に台湾を離れてイギリス領香港に渡り、四川料理店を開業する。料理店は軌道に乗り、同地で結婚も果たすが、儲かった故の仲間同士のいざこざに嫌気がさして店を辞め、1952年(昭和27年)に友人で点心師の黄昌泉と共に観光ビザで来日。同じく四川省出身の陳海倫の食客(居候)となり、その後まるみや果物店の宮田清一の食客となった。1953年(昭和28年)春、陳海倫の依頼で外務次官の奥村勝蔵に宴席料理を供したのが縁で、外務省に外売(出張料理)を始める。この頃、『東文基園』(通称「ゲストハウス」)で手伝いをしていた洋子と結婚。建民のプロポーズは「私、香港に妻がいます。貴方と結婚しても、給料の半分は香港の妻のものです。それでも結婚してくれますか?」というものだった。洋子の両親や身内からは猛反対されたが、洋子は「正直な人だ」と思い、結婚に踏み切った。1956年(昭和31年)、後年フジテレビのバラエティー番組『料理の鉄人』で知られる長男の建一が誕生。1958年(昭和33年)、台湾出身の龍智議が新橋田村町に四川飯店を開業し、建民も厨房で働く。同年の秋、独立する形で自分の店として赤坂に出店。宮廷料理を得意としたが、庶民的な料理や四川以外の料理も適宜好みや当時の台所事情など日本人にあわせアレンジを加えて評判となった。その成功を踏まえ、1960年(昭和35年)には六本木に2店目を出店した。また、NHKの『きょうの料理』などの料理番組に出演。乾焼蝦仁をヒントに考案したエビのチリソース、回鍋肉、担担麺、そして醤油・胡椒が味付けのベースとなる和風麻婆豆腐などのレシピを公開し、協和語や横浜ピジン日本語に似た独特の言葉遣いと共に注目を集めた。1966年(昭和41年)、有志と東京・恵比寿に中国料理学院を設立。元来、中華料理の世界は徒弟制で下働きをしながら盗み見て覚える(偸精学芸)ものであったが、多くの卒業生を送り出し、中国料理の普及に大きく貢献した。1970年(昭和45年)、赤坂四川飯店をオープン。その後も全国各地に店舗を展開していった。1980年(昭和55年)、日本に帰化し、日本名を東 建民(あずま けんみん)とした。中国人としてのプライドから後年まで大きな抵抗があったが、社業の関係から決断した。1987年(昭和62年)、卓越技能表賞(現代の名工)を受賞。1990年(平成2年)5月12日、死去。享年70。


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日本における四川料理の父といわれた陳建民。中国料理店のシェフを務めながら、テレビの料理番組へ積極的に出演し、数々の四川料理を日本の家庭に伝えた。自ら「私の中華料理少しウソある。でもそれいいウソ。美味しいウソ」と語ったように、「回鍋肉にキャベツを入れる」「エビチリソースの調味にトマトケチャップ」「麻婆豆腐には豚挽肉と長ネギ」など、日本の味覚に合わせたアレンジを行い、それが現在では当たり前の調理方法となるなど、四川料理の普及に大きく貢献した。「中華の神様」こと陳建民の墓は、静岡県田方郡の函南霊園にある。墓には「陳家」とあり、左側に墓誌が建つ。先日亡くなられた息子で「中華の鉄人」として一世を風靡した長男・陳建一の名前も刻まれている。

by oku-taka | 2023-09-10 23:04 | 衣・食・住 関係者 | Comments(0)