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緒形拳(1937~2008)

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緒形 拳(おがた けん)

俳優
1937年(昭和12年)〜2008年(平成20年)

1937年(昭和12年)、東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)に生まれる。本名は、緒形 明伸(おがた あきのぶ)。太平洋戦争中、空襲で牛込の家が焼かれたため、小学校2年生の時に千葉県千葉市登戸町(現在の中央区登戸)に一家で疎開。中学まで千葉で過ごし、その後に東京へ戻った。終戦後、父は定職につかずブラブラしていたため、母が一家を支えていたが、兄弟が多いこともあり緒形家の生活は貧しかった。その後、すぐ上の兄が俳優を志して俳優座養成所の研究生として演技を学んでいたが、緒形が15歳の頃にプールで心臓麻痺を起こして急逝。これをきっかけに役者の道を意識するようになった。東京都立竹早高等学校在学中、新国劇の舞台に惚れ込み、仲間内で新国劇の当時の人気演目の1つであった戯曲『王将』を行い、大阪の名棋士・坂田三吉を演じた。新国劇で同役を演じた辰巳柳太郎への弟子入りを目指したところ、亡くなった三男と『王将』を書いた劇作家・北条秀司の娘がたまたま同級生だったことが分かり、高校卒業後の1958年(昭和33年)にそのつてで新国劇に入団。憧れていた新国劇の二大看板俳優の1人、辰巳柳太郎の付き人となる。当初は本名で活動していたが、怪我が多いのを心配した北條夫人から改名を提案され、芸名の候補として「緒形 寅蔵(おがた とらぞう)」が挙がったが即答はできず、「あなたの気にするところは?」と聞かれて、咄嗟に「手が大きい」と答えると「緒形 掌(おがた てのひら)」と言われるも変な名前だと首肯せず、続いて「緒形 握り拳(おがた にぎりこぶし)」は名前が長いとしてこれまたしっくりこなかったが、最終的に「緒形 拳(おがた こぶし)」と決定。しかし、周囲の誰からも「こぶし」と読まれず、「ケンさん」と呼ばれ続けたため、意に反してそちらが定着してしまった。新国劇入団後、二大看板役者だった辰巳柳太郎と島田正吾に目をかけられた緒形は、演技指導を受けて劇団のホープとして頭角を現すようになった。1960年(昭和35年)、島田に見出され『遠い一つの道』で主人公のボクサー役に抜擢。作品は映画化され、映画デビューも果たす。1965年(昭和35年)、NHKのディレクターだった吉田直哉により、大河ドラマ『太閤記』の主役に抜擢。一躍お茶の間に存在を知られるようになったが、新国劇の活動も兼務した。引き続き1966年(昭和41年)の大河ドラマ『源義経』に武蔵坊弁慶役で出演し、2年続けて大河に出演する稀有な活躍を見せ、その後も数々の大河ドラマに出演し、常連俳優の1人として活躍した。しかし、大河ドラマでの好演によりテレビ業界からオファーが舞い込むようになり、舞台とテレビがそれぞれ拘束時間が長いことから両立が難しくなった。どちらかを選ぶことになった結果、辰巳と島田の両師匠を裏切る形で、1968年(昭和43年)に新国劇を退団。映画・テレビドラマに活躍の場を移した。1972年(昭和47年)、テレビドラマ『必殺仕掛人』シリーズの藤枝梅安を演じ、多くのファンを獲得。映画化もされ、『必殺必中仕事屋稼業』にも出演した。映画でも、野村芳太郎監督『砂の器』、森谷司郎監督『八甲田山』などで好演。1978年(昭和53年)に公開された映画『鬼畜』では子どもを次々と棄てる印刷業の男で主演し、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞、ブルーリボン賞主演男優賞、キネマ旬報賞主演男優賞、毎日映画コンクール男優演技賞、報知映画賞主演男優賞など、数々の賞を受賞。1979年(昭和54年)には、5人も人をあやめる殺人犯役を演じた『復讐するは我にあり』で、日本アカデミー賞優秀主演男優賞に輝いた。1983年(昭和53年)、『楢山節考』『陽暉楼』『魚影の群れ』で、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞、ブルーリボン賞主演男優賞、毎日映画コンクール男優主演賞を受賞。特に、今村昌平監督『楢山節考』はカンヌ国際映画祭最高賞のグランプリ(パルムドール)を受賞し、名実ともに日本映画を代表する俳優となった。1984年(昭和59年)、ポール・シュレイダー監督「Mishima:A Life In Four Chapters」で主人公の三島由紀夫を演じるなど、この頃には外国映画への出演も増えた。勝新太郎が「道草しちゃだめだよ」と忠告したが、緒形は「メインストリームより田んぼのあぜ道って楽しい」と語っている。その後、活動を日本映画に戻した。 1985年(昭和60年)、SFやミステリー、漫画に造詣が深かったことから、テレビドラマ『迷宮課刑事おみやさん』を発案し企画。自ら主演を務めた。1986年(昭和61年)、『薄化粧』『櫂』で日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞。1987年(昭和62年)、『火宅の人』で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。同年、新国劇が70年の幕を下ろすにあたり、辰巳柳太郎の当たり役で知られた戯曲『王将』の坂田三吉を最終公演で演じた。1988年(昭和63年)、『女衒』で日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞。演劇以外でも多才なことで知られ、書家としても活動。1991年(平成3年)に初個展を開催し、1998年(平成10年)には『臍下丹田』という本も出版して話題を呼んだ。競馬にも造詣があり、2000年(平成12年)にはJRAのCMキャラクターに就任した。1999年(平成11年)、池端俊策監督『あつもの』で、フランス・ベノデ映画祭グランプリを受ける。2000年(平成12年)、紫綬褒章を受章。しかし、この頃から慢性肝炎を患い、肝硬変を経て2003年から2004年頃に肝癌に至り、適切な内科的手術を受け投薬治療や食事療法を受けながら、病を隠して俳優活動を続けていた。2006年(平成18年)、島田正吾が新国劇の開祖である澤田正二郎から受け継ぎ、取り組んでいたひとり芝居『白野 シラノ』を島田の三回忌追善興行として受け継ぎ、シアターコクーンで演じた。結果としてこれが最後の舞台作品となった。2008年(平成20年)10月4日、自宅で体調が急変。栃木県下都賀郡壬生町の獨協医科大学病院に運ばれて肝臓破裂の緊急手術を受けるが、10月5日午後11時53分、肝癌のため死去。享年71。最後の出演作は、ドラマ『風のガーデン』(フジテレビ系テレビドラマ)となり、死去5日前の9月30日には作品の制作発表にも出席していた。また、最後の出演CMとなったエプソン「カラリオ」シリーズの放映が10月1日から開始されたが、死去にともない休止された。没後、長年の演劇界への貢献から旭日小綬章が追贈された。


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圧倒的な存在感で見る者を魅了した緒形拳。NHK大河ドラマ『太閤記』で一躍時の人となり、『武蔵坊弁慶』『必殺仕掛人』『峠の群像』『鬼畜』『復讐するは我にあり』『楢山節考』と、鬼気迫る演技で映画やテレビドラマに大活躍。一時は、どの作品にも緒形拳がいるという状態なくらいに出演し、名優としての地位を固めた。特に、映画『鬼畜』と、テレビドラマ『武蔵坊弁慶』『破獄』は、緒形拳の魅力が遺憾なく発揮された代表作として挙げたい。晩年『トリビアの泉』でドラえもんの大ファンであることが取り上げられ、自らバラエティーに出演してその真意を語るということに驚いたが、どうにも声の調子が悪そうだったのが引っかかった。2年後に放送されたNHKドラマ『帽子』でも演技のキレがイマイチで、あの名優がどうしたものかと当時思ったものだが、没後に人知れず闘病生活を送っていたことが明らかとなって大変に驚いた。亡くなるまで役者を貫いた緒形拳の墓は、千葉県茂原市の獅子吼霊園にある。墓には「緒形」とあり、側面に墓誌が刻む。戒名は「天照院普遍日拳居士」。

by oku-taka | 2023-08-16 14:18 | 俳優・女優 | Comments(0)