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笹沢左保(1930~2002)

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笹沢 左保(ささざわ さほ)

作家
1930年(昭和5年)〜2002年(平成14年)

1930年(昭和5年)、詩人・笹沢美明の三男として東京府淀橋町(現在の東京都新宿区)に生まれる。本名は、笹沢 勝(ささざわ まさる)。その後、神奈川県横浜市に移住。父は貿易商だった祖父の遺産を受け継いだが、財産を使い果たして貧困の中で育つ。子供の頃から探偵小説を愛読し、雑誌『ロック』の懸賞小説にも応募した。その後、関東学院高等部に通うが、家出を繰り返して中退。17 歳の頃には、自分の力だけで生きていこうと決意。しかし、ヤクザとの乱闘や、喧嘩を売られての決闘、既婚の女性との心中未遂など、荒んだ青年期を送る。1952年(昭和27年)、東京に戻って郵政省簡易保険局に勤務。労働組合の執行委員なども務めた。この頃から、芝居の台本を試作している。1958年(昭和33年)、全逓信労働組合の機関誌『全逓新聞』の懸賞小説に応募した「ある犠牲」が入選。同年11月、飲酒運転の自動車に撥ねられ、全治8ヶ月の重傷を負い入院。入院前に探偵小説誌『宝石』の懸賞小説に応募していた短編「闇の中の伝言(後に「伝言」と改題)」「九人目の犠牲者(後に「九人目」と改題)」が、同年12月増刊号に発表された。1960年(昭和35年)、『週刊朝日』『宝石』共同短編小説コンクールに「勲章」が佳作入選。また、退院後の療養中に執筆した初長篇『招かれざる客』が第5回江戸川乱歩賞候補次席となり、改稿版が3月に刊行されて本格的な小説家デビューを果たした。その後、『霧に溶ける』『結婚って何さ』『人喰い』の3長編を矢継ぎ早に発表。1961年(昭和36年)、『人喰い』で第14回日本探偵作家クラブ賞を受賞。また、『人喰い』で直木賞候補になった。その後、郵政省を退職して作家専業となり、『空白の起点』『真昼に別れるのはいや』『暗い傾斜』『突然の明日』など、本格ミステリーの傑作・佳作を次々に発表。『空白の起点』は直木賞の候補ともなり、「新本格派のホープ」と謳われた。自らも、犯罪トリックの設定における本格派であるにくわえ、人物設定のリアリティー追及を意味したことから、新本格派と称していた。筆名の左保は、夫人の名前(佐保子)からとったもので、デビュー当時の筆名は笹沢佐保だが、『招かれざる客』の単行本でデビューした翌年から左保と改めた。1962年(昭和37年)、短編『六本木心中』で現代小説に挑戦。"少年少女の虚無の愛を描いた"作品で、推理小説に"人間不信のドラマ"を絡めたものだと評された同作は、同年下半期の直木賞候補にもなり、受賞確実との前触れすらあったが、結局は叶わなかった。この頃、笹沢は「本格派」を提唱しつつもも、殺しのないミステリーである作品を著作しており、心中もの三部作もこのとき生まれている。1970年(昭和45年)、『小説現代』の新・股旅小説と銘打たれたシリーズで発表した「見返り峠の落日」で時代小説にも進出。股旅物に推理小説の技巧であるどんでん返しや鮮やかなエンディングを取り入れた。翌年、「赦免花は散った」から書き継がれた『木枯し紋次郎』シリーズは、中村敦夫主演でテレビドラマ化され、一大ブームを巻き起こすほどの人気作となった。その後も現代ものでは、誘拐ミステリーの傑作『真夜中の詩人』、『遥かなりわが愛を』などアリバイ崩しと歴史推理を融合した伊勢波シリーズ、誘拐ものとタイムリミット・サスペンスを融合した『他殺岬』、密室トリックが巧緻な『求婚の密室』など、数多くの傑作・話題作を発表。最盛期には月産1,000~1,500枚に達することもあったほどの多作でありながら、実験的な試みを多くの作品で実践。極端に登場人物を少なくした『三人の登場人物』、官能サスペンスの試み『悪魔の部屋』、会話文のみで書かれたミステリー『どんでん返し』『同行者』、アリバイ・トリックのどんでん返しがある『後ろ姿の聖像』、2人の探偵役が毎回異なる推理をぶつけ合い対決する連作『セブン殺人事件』、著者自身が探偵役となって活躍する『真夜中に涙する太陽』、四重交換殺人に挑んだ『霧の晩餐』等、多作型の本格推理作家の中で異彩を放った。また、ミステリー手法を積極的に取り入れた時代小説でも、『さすらい街道』『地獄の辰無残捕物控』『半身のお紺』シリーズ『剣鬼啾々』『新大岡政談』『真田十勇士』『夢と承知で』等、数多くの傑作・話題作を発表した。推理小説の特殊性に強いこだわりを持ち、謎解きなど推理小説が本格であることは最低必須であり、そこからさらにリアリティー等も追及しなければならない、それがこれからの"新本格"のあるべきかたちである、と持論を説いていた。笹沢は江戸川乱歩賞の選考委員を務めていた際も、推理小説の枠が拡がりすぎて、本質が見失われつつある現状を憂いたコメントを繰り返し、小松左京のSF長編『日本沈没』が日本推理作家協会賞候補になった際も、選考委員の中で受賞に最も強く反対した。1977年(昭和52年)には「風俗小説化の功罪」と題するエッセイで推理小説の風俗小説化を弾劾している。1983年(昭和57年)、父親のための青年塾を結成。世直し説法の講演で全国を行脚した。1987年(昭和62年)、『木枯し紋次郎』架空の出生地である三日月村に似た三日月町が佐賀県に実在すると知り、療養のため現地の病院に入院。その後、隣接する佐賀県の富士町に自宅を構えて移り住んだ。1990年(平成2年)以降も、タクシードライバーの探偵・夜明日出夫が活躍するシリーズ『アリバイの唄』や、『取調室』シリーズ等、2時間サスペンスドラマでお馴染みの作品を発表。しかし、1992年(平成4年)に癌の告知を受け、闘病生活に入る。6度の癌手術を受けながらも旺盛な執筆活動を継続し、九州さが大衆文学賞(笹沢左保賞)の創設・運営にも携わった。1995年(平成7年)、健康不安から佐賀市富士町を離れ、通院していた病院に程近い佐賀市兵庫町へ転居。1999年(平成11年)、第3回日本ミステリー文学大賞を受賞。2000年(平成12年)、有栖川有栖、二階堂黎人、綾辻行人ら若手推理作家が中心となって結成された「本格ミステリ作家クラブ」に、会員として名を連ねた。2001年(平成13年)、佐賀を離れて東京都小平市に移住。2002年8月、再び癌の診断を受けたが、手術を拒否。自宅で療養していたが、10月21日午前2時5分、肝細胞癌のため東京都狛江市の病院で死去。享年71。


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文壇最後の無頼派と呼ばれた笹沢左保。ヤクザとの決闘、人妻との心中未遂、瀕死の交通事故など、何度も生死の境をくぐり抜けて作家に転身。テレビドラマ化されて大ヒットとなった『木枯し紋次郎』をはじめ、斬新な設定の本格推理小説、テレビドラマ『タクシードライバーの推理日誌』や『取調室』など2時間モノの題材となったサスペンス作品、『真田十勇士』や『宮本武蔵』などの歴史小説、果てはエッセイなど幅広いジャンルを手がけ、40年余りの作家生活で約380作品を世に残した。あらゆるジャンルで多作ながらも、ミステリーにこだわり続けた笹沢左保の墓は、千葉県長生郡の笠森霊園にある。墓には「笹澤家之墓」とあり、右側に墓誌、左側に直筆で「人は燃えて生きるべし」の言葉とサイン、そして作品リストが刻まれた碑が建つ。戒名は「廣惇院偃月文瑛清居士」。

Commented by 水口栄一 at 2024-07-15 20:01 x
私は19才の時、ある出版社の文芸部門で受賞したことがあります。その時の審査員が笹沢左保さんでした。それだけにとても興味深く、読ませて頂きました。ありがとうございました。
by oku-taka | 2023-08-16 13:49 | 文学者 | Comments(1)