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山田無文(1900~1988)

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山田 無文(やまだ むもん)

僧侶
1900年(明治33年)〜1988年(昭和63年)

1900年(明治33年)、愛知県北設楽郡武節村(現在の豊田市)に生まれる。世の中を平和で争いの無いようにしたいという思いから法律家を目指し、13歳で兄とともに上京。早稲田実業に進学するが、漢文の授業で出会った孔子の論語の一節「訟えを聴くこと、吾猶お人の如し。必ずや訟え無からしめんか」に大きな影響を受ける。「裁判官になって判決を下すことは自分にも出来るが、それよりも訴えの無い、争いの起こらない世の中を作ることが自分の理想なのだ」と考え、どうしたら争いの無い世を実現できるのか、キリスト教の教会に足を運ぶなど、様々な宗教に解決を求めた。自らの進路に迷う中、知人の誘いで仏教学者・河口慧海のシャテデーバ『入菩薩行』の翻訳講義に参加。テキストにあった「この地球を全部牛の皮で覆うならば、自由にどこへでも跣足(はだし)で歩ける。が、それは不可能である。しかし自分の足に七寸の靴をはけば、世界中を皮で覆うたと同じことである。この世界を理想の天国にすることは、おそらく不可能である。しかし自分の心に菩提心をおこすならば、すなわち人類のために自己のすべてを捧げることを誓うならば、世界は直ちに天国になったにひとしい」という一文に感激し、出家を決意。河口に師事するとともに、臨済宗大学(現在の花園大学)に進学した。しかし、厳しい修業による睡眠不足、過労、栄養失調から、当時不治の病といわれた結核に冒されてしまい、実家に戻って療養生活を送る。共に上京した兄も結核で亡くなったことから、自身も死を覚悟していたが、ある日、縁側でそよ風に吹かれながら「風とは何ぞや。 風とは空気。空気とは何ぞや。空気は自然。 その空気を朝から晩まで、晩から朝まで、呼吸して生きている。そうだ私の後ろ盾には大自然が付いているんだ」と考え、それから健康は回復。1925年(大正14年)には大学を卒業した。1929年(昭和4年)、妙心僧堂に掛塔するが、まもなく天龍僧堂に転錫。関精拙に参禅し、その法を嗣ぐ。戦時中は戦場を慰問に回るが、南方では餓死や病死で亡くなった兵士が多く、「これで仏の心か」と責任を感じる。1949年(昭和24年)、妙心寺の塔頭である霊雲院の住職に就任。同年、花園大学の学長に就任。1951年(昭和26年)、ハンセン病の治療所である長島愛生園を初訪問。以降も度々訪問し、ハンセン病療養所の慰問に尽くした。1953年(昭和28年)、神戸の祥福寺住職並びに専門道場の師家となる。1964年(昭和39年)、禅文化研究所の所長に就任。1969年(昭和44年)、戦没者の遺骨収集と慰霊の活動をスタート。戦後、ニューギニアで父を亡くした遺族から「眠っている遺骨も収集したい。何とか弔うことができたら」という相談を受けたことを機に、南太平洋友好協会を発足。ニューギニアやソロモン諸島、ガダルカナル、サイパン、硫黄島、ビルマと慰霊の旅を続けた。1978年(昭和53年)、臨済宗妙心寺派の第24代管長に就任。また、花園大学の名誉学長となる。1982年(昭和57年)、管長並びに学長を退任。1988年(昭和63年)、遷化。享年88。


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多くの著作と法話を残した臨済宗の名僧・山田無文。穏やかな人柄と、衒いや押しつけがましさなどが全くない素朴な話術から「近代の名僧」と謳われた。特に、厳しい修行がもとで結核にかかった際、自然の風のそよぎに気づき、「風とは空気」「空気は自然」「その空気を朝から晩まで、晩から朝まで、呼吸して生きている」「私の後ろ盾には大自然が付いている」という悟りを開いたことは有名なエピソードである。そのときに詠んだ歌「大いなる ものに抱かれ あることを 今朝吹く風の 涼しさに知る」は山田無文の代名詞となった。薫風によって心眼を開かれ、わかりやすい言葉で仏法を身近に感じさせ続けた山田無文の墓は、千葉県富津市の佛母寺、京都府京都市の霊雲院、兵庫県神戸市の祥福寺にある。千葉県の墓には「佛母開山特住妙心太室文禅師大和尚」とあり、墓誌はない。

by oku-taka | 2023-08-16 13:32 | 僧侶 | Comments(0)