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千葉真一(1939~2021)

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千葉 真一(ちば しんいち)

俳優
1939年(昭和14年)〜2021年(令和3年)

1939年(昭和14年)、福岡県福岡市博多区雑餉隈に生まれる。本名は、前田 禎穂(まえだ さだほ)。4歳のとき、千葉県君津市へ転居。中学生から器械体操を始め、オリンピックで日の丸を掲げたいという夢を抱くようになり、千葉県立木更津第一高等学校へ入学後、1年生で全国大会上位入賞、3年生で全国大会優勝を成し遂げた。1957年(昭和32年)、日本体育大学体育学部体育学科に進学。しかし、2年生のときに跳馬を練習中に着地で失敗し、腰・両膝を痛めてしまう。医者から「1年間運動禁止」と宣告され、選手を続けることが困難となる。休学も検討したが、学費を工面できないので余儀なく退学した。実家に帰る途中の代々木駅で「東映第6期ニューフェイス募集!」のポスターを偶然見かけ、地元に戻って相談した親友も賛成してくれたことや、かつてミスタースポーツウエア・コンテストに入賞し、東映ニューフェイスを受験するよう勧められていたことから応募。日本体育大学で器械体操をしていた経歴を珍しがられ、2万6千人の応募からトップの成績で合格を果たす。1959年(昭和34年)、正式に東映へ入社。男性6名・女性14名の同期生には亀石征一郎・新井茂子・茅島成美・太地喜和子・真山知子・都築克子らがおり、俳優座で6か月の研修を受けた。1960年(昭和35年)1月7日、テレビドラマ『新 七色仮面』の二代目・蘭光太郎として主演デビュー。同作は『七色仮面』から引き継がれた作品で、『七色仮面』では蘭光太郎を波島進、七色仮面をスーツアクターが分担して演じていた。千葉はスーツアクターも兼務して、器械体操を活かしたアクションをふんだんに取り入れ、新しい七色仮面を編み出し、その演技・スタント・擬斗は、後に製作されていく変身ヒーローを題材とした特撮作品に大きな影響を与えた。続けてテレビドラマ『アラーの使者』にも主演。本作も児童向け活劇だが、アクションは本格的で、翌年の主演映画『宇宙快速船』のアクションヒーローに繋がっていく。1961年(昭和36年)、中山昭二の代役で映画『警視庁物語 不在証明(ありばい)』に出演。その後、深作欣二の初監督映画『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』に主演し、2期先輩の曽根晴美と「拳銃コンビ」のキャッチコピーで売り出される。危ないシーンはスタントマンに任せるのが主流な時代に、「吹き替えせずにできる」とスタッフへ言ったので、「さすが日体大だけに凄いことをやる」と評された。深作は文芸作品よりアクションものを好み「肉体こそ俳優の言葉」が口ぐせだったので、第二作『風来坊探偵 岬を渡る黒い風』でも千葉を主演に据え、更に危険な吹き替え無しのスタントを演じさせた。ニュー東映のホープとして主演した『ファンキーハットの快男児シリーズ』では、カーチェイス、左右に開脚して2人の敵を同時に倒す跳び蹴り、器械体操で培った筋骨隆々な肉体美を大車輪で披露した。アクション以外でも、1962年(昭和37年)に映画『事件記者シリーズ』の第1作『恐怖の魔女』に主演したほか、1963年(昭和38年)には映画『八州遊侠伝 男の盃』で時代劇初出演し、『事件記者シリーズ』の第2作『殺人鬼の誘惑』と『柔道一代シリーズ』第一作に主演。シングル「男一匹生きるなら」をリリースして歌手デビューも果たした。1966年(昭和41年)、台湾との合作映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』(日台合作)に主演。台湾でのロケーション撮影では、離陸する軽飛行機の翼に飛びつき乗り込むスタントを行い、疾走する自動車を追いかけてアンテナに飛びつくスタントで後輪の跳ねた石が脛に突き刺さり、台湾で一週間入院する代償を払っている。傷だらけになりながらもスタントを演じきったが、後に父親を受取人にして、傷害保険・生命保険を契約した。同年にはアメリカとの合作映画『海底大戦争』にも主演し、国際的にも活動し始める。日本では、テレビドラマ『くらやみ五段』、作曲家・遠藤実の自伝を映画化した『太陽に突っ走れ』、『子守唄シリーズ』、『河内遊侠伝』、『陸軍諜報33』など次々と主演。1968年(昭和43年)からはテレビドラマ『キイハンター』に主演。本作の脚本は映画に比べるとアクションが詳細に指定されていなかったので、千葉は良いものを作りたい一心で積極的にアイデアを出すが、経費を気にするスタッフと対立することもあった。しかし、瞬く間に視聴率は30パーセントを超え、1年の放送予定が5年に延ばされた。これによって千葉のアイデアはどんどん採用され、山頂駅を出発した谷を行き来するロープウェイにワイヤを投げてぶら下がってからよじ登り、走行する列車やバスに飛び降りて屋根で敵と格闘、自動車から並走する軽飛行機に飛び移る、雪渓から回転しながら転落、滑落しそうな滝の前で格闘など、数々のスタントを演じた。これまで誰も見たことのないスーパーアクションで人気をさらい、千葉ちゃんの愛称で一躍国民的アイドルとして親しまれた。1969年(昭和44年)の近代映画10月号臨時増刊では『千葉真一特集号』を刊行され、週刊マーガレットでは同年のNo.17から『千葉真一物語』が連載されるなど、人気はさらに上昇していった。同年、オールスターキャスト映画『日本暗殺秘録』では、小沼正に扮して主演した。『キイハンター』を休んで撮影に臨み、そのイメージから脱却しようとする演技は、同年の京都市民映画祭で主演男優賞を受賞。『キイハンター』で人気者になるだけではなく、「様々な作品に出演していかなくてはいけない」と考え直す転機にもなった。1970年(昭和45年)、自分の役でもないのに「投げ飛ばされる」、「板にぶつかる」、「海に放り込まれる」など、幾度となく代わりにスタントを演じてきたことから、アクション・擬斗を演じる相手やスタントマンの不足に悩み、アメリカ映画で活躍するような俳優・スタントマンの育成、若年層の教育に関心を持っていたことから、ジャパンアクションクラブ (JAC) を創設。初期は千葉主演の映画・テレビドラマに第一期生らが数人単位で出演していたが、徐々に業界で認知されていき、千葉が出演しない特撮ヒーロードラマ等への出演も増え、3年後には東京都港区六本木に資本金150万円で法人化した。1972年(昭和47年)、『キイハンター』で共演した野際陽子と婚約し、1973年(昭和48年)年には結婚した。同年、映画『仁義なき戦い 広島死闘篇』に出演。配役は予科練出身のヤクザ・山中正治に決まり、セリフも全て覚えて撮影に入る直前だったが、狂犬のようなヤクザ・大友勝利を演じることが決まっていた北大路欣也が「大友は粗暴で下品すぎて、どうしても自分では演じられない。山中をやらせてほしい」と言い出したことから、プロデューサーの日下部五朗と宣伝担当者らは千葉を突然訪ね、「山中と大友を交代してもらえないか」と依頼してきた。初めは交代に難色を示したが、ほどなくして深作欣二が会議で唯一「千葉に大友を演じさせたほうが、絶対おもしろくなる」と主張していたことを知り、似たような役を再び演じることは俳優として停滞するのではないかと再考し、「役作りし直すから、出番を少し後にずらしてほしい」と交代を了承した。過激なセリフに悩みながら「これまで良いと思ったものを全て捨てる」という姿勢で、サングラスを常時掛けて眼を隠し、唇を裏返しにして糊付けするなど、役柄にふさわしい演技・扮装を工夫。そうして作り上げた大友勝利は、シリーズ中1, 2を争う名キャラクターとして人気を掴み、後のヤクザ映画でも「『仁義なき戦い』の千葉真一さんがやった大友勝利のような」と影響を与え続け、ヤクザ役のひな型となった。また、封切り公開されると千葉のイメージチェンジは話題となり、俳優座養成所1期生で千葉と何度か共演している岩崎加根子などからも絶賛され、それを聞いた千葉は「とても自信がついた。悪役の妙味を知ることができ、実に大きなものを与えてくれた作品だった」と語っている。大友勝利は人気キャラクターだけあって主人公にした企画が出され、『仁義なき戦い 頂上作戦』にも大友で出演する予定だったが、『広島死闘篇』と同時進行で『柔道一代シリーズ』以来10年ぶりの格闘映画『ボディガード牙シリーズ』にクランクインしたため、『仁義なき戦いシリーズ』の再出演は実現しなかった。1974年(昭和49年)、『激突! 殺人拳』に主演。ヤクザ映画が下火になっていた東映にとって、久々の大ヒットを飛ばす作品となった。アメリカ合衆国・ヨーロッパ・オーストラリア・カナダの映画会社も『激突! 殺人拳』を買い付けに来ており、なかでもアメリカのニュー・ライン・シネマは当初ヤクザ映画を購入するつもりだったが、本作を見て心変わりし、『The Street Fighter』とタイトルをつけ、千葉をSonny Chiba(サニー ちば)とネーミング。同年11月12日から主にアメリカ中南部の都市18館で封切られ、3週間でベスト5に躍り出てた。さらに、日本映画として初めて興行収入100万ドル以上を記録し、千葉の代表作となった。アメリカで最も権威のある総合情報週刊誌「Variety」の12月18日付にもこの出来事が掲載され、同誌が初めて日本映画を取り上げるという快挙を成し遂げている。以降、『殺人拳シリーズ』、『地獄拳シリーズ』、『少林寺拳法』、『けんか空手シリーズ』、『激殺! 邪道拳』と格闘映画で主演作品が続々と製作。この頃から国際的にSonny Chiba(サニー ちば)という名前で認知されることとなり、主演・出演するカラテをメインにした格闘映画は続々と世界的に大ヒットした。前後して若手の育成に追われる日々となったが、1976年(昭和51年)の映画『沖縄やくざ戦争』では京都市民映画祭の主演男優賞を受賞した。同年、ドラマ『七色とんがらし』に主演。同作を皮切りに、アクション・格闘・スタントを主としない対照的な作品にも主演をし、静の演技を見せた 。1977年(昭和52年)4月、ハワイで開催された「日本代表極真会館チーム対ハワイ代表チーム」というフルコンタクト空手の対抗戦に参戦。180cm以上あるネグロイドのアメリカ東海岸空手チャンピオンと戦い、二段蹴りでKO勝ちを収めた。東映に入る前から大山道場には通っており、きっかけは大学生の時に大山倍達を知っている韓国人から紹介を受けて入門。大山は「学生時分から千葉は道場へ通ってきており、仕事の関係でまとまった稽古をしていないまでも、門下生の序列でいうと相当古い方になるんだよ」と語っている。千葉は名誉段位ではなく、一般門下生と同様に昇段審査を受け、1965年(昭和35年)10月15日に黒帯(初段)を允許。この大会の直前の2月3日に弐段を越えて飛び段で参段となり、後に四段へ昇段した。1978年(昭和53年)から本格的に時代劇へ進出。主演映画『柳生一族の陰謀』は興行収入30億円以上の記録的大ヒットし、第2回日本アカデミー賞の優秀助演男優賞を受賞した。また、テレビドラマ『柳生あばれ旅シリーズ』の柳生十兵衛三厳と、『影の軍団シリーズ』の服部半蔵は当たり役となり、その身体能力を活かしたド迫力の殺陣を時代劇の芝居に持ち込み、これまで表現できなかったアクロバティックな動きが、時代劇の殺陣に活かされた。1979年(昭和54年)、芸能生活20周年記念作品『戦国自衛隊』で、主演と日本映画初のアクション監督を兼務。時速100kmで飛ぶヘリコプターにロープ1本でぶら下がり、乗馬では地面にある矢と弓を左右に傾き、拾い上げるスタントを演じたほか、ヘリコプターから宙吊りになるシーンは自前のハイスピードカメラを足に括りつけて撮影し、騎手の目線を写すためにカメラを取り付けたヘルメットを被り乗馬するなど、アクション監督として撮影を自ら行った。本作の演出には『戦略大作戦』を意識し、1980年(昭和55年)にブルーリボン賞のスタッフ賞を受賞した。1981年(昭和56年)、東映から「好きな映画を作っていい」と許可され、主演映画『冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-』を自ら企画。フランス映画『冒険者たち』をオマージュした作品で、空手・拳法の達人や剣豪・忍者とは異なるしがない大学職員に扮して活劇を演じた。また、『忍者武芸帖 百地三太夫』と『吼えろ鉄拳』で出演とアクション監督を兼務した。1981年(昭和56年)から演劇にも進出し、ミュージカル『ゆかいな海賊大冒険』、『酔いどれ公爵』など複数の作品を企画・演出・主演し、JACミュージカルとして定期的に公演した。新宿コマ劇場の観客動員数では、3年間にわたって満員御礼となる記録的な成功を収めている。1982年(昭和57年)、楽曲「誓い(JACのテーマ)」を作詞。1985年(昭和60年)には10年ぶりに歌手としてリリースした『曠野』の作曲も手がけた。1989年(平成元年)、『将軍家光の乱心 激突』で出演とアクション監督を兼ね、この作品は第39回ベルリン国際映画祭に招待された。1990年(平成2年)にはプロデューサーと初の監督を兼ねた映画『リメインズ 美しき勇者たち』を手がけた。その一方で、1970年代半ばにはフランシス・フォード・コッポラが「千葉真一とアル・パチーノの共演で映画を製作したい」と東映にオファーしたが、岡田茂は「まだその時期ではない」と了承せず、関係者には「本格的な海外作品の出演をあきらめた」と思われていた。しかし、水面下のアピールや主演映画の評判などで、1990年(平成2年)頃からアメリカ映画の出演依頼が届き始めていた。1991年(平成3年)、ジャパンアクションクラブ (JAC) を日光江戸村(大新東グループ)に売却。そこで得た資金を基にアメリカへ渡り、映画『エイセス』でハリウッドデビューを果たす。これを機に拠点をロサンゼルスへ移し、アメリカでも俳優活動をするようになる。1994年(平成6年)、アメリカに拠点を移したかった千葉は、日本に居たかった野際と離婚。野際とは一緒に記者会見に臨み、離婚を最後まで拒んだ千葉に対し、野際は「私のわがままです。彼がハリウッド進出のため米国にいるのがほとんどで、千葉真一の妻という感覚が希薄になりフッと忘れてしまうことが多くなった。けじめもつけたかったし、出会った『キイハンター』のころの友達に戻りたかった」と理由を答えている。1996年(平成8年)、28歳年下の一般女性と再婚。長男・新田真剣佑と次男・眞栄田郷敦を授かり、アメリカ合衆国カリフォルニア州ビバリーヒルズに在住した。1998年(平成10年)、香港映画『風雲 ストームライダーズ』に出演し、ラスボス“雄覇(ホンパ / ホンファ)”を演じた。原作のイメージを彷彿とさせるその演技は話題に上り、翌年の第18回香港電影金像奨では、外国人として初めて優秀主演男優賞にもノミネートされた。2003年(平成15年)、友人でもあるクエンティン・タランティーノのアメリカ映画『キル・ビル』シリーズに出演。さらに、ユマ・サーマン、ルーシー・リューらハリウッドスターへ剣術指導をした。第30回サターン賞では『キル・ビル』で助演男優賞にノミネートされた。2005年(平成17年)10月29日に開催されたハワイ国際映画祭では、これまでの功績を讃えた「MAVERICK AWARD」を受賞した。2007年(平成19年)、大河ドラマ『風林火山』に板垣信方役で出演。 11月には海外で通称としていたJJ Sonny Chiba(JJ サニー チバ)を日本でも使うようになり、和千永 倫道(わちなが りんどう)の名で映画監督業への進出を表明した。母親の旧姓・和智永(わちなが)と千葉を併せ、「人の道」を由来としたものである。11月26日には厚生労働省から「健康大使」にも任命された。2008年(平成20年)10月から2009年(平成21年)3月まで京都造形芸術大学の教授を務めた。2011年(平成23年)以降は、芸名を日本のみ千葉 真一、海外ではJJ Sonny Chibaとしている。同年9月29日から10月2日にロサンゼルス・ウエストウッドのビッグフット・クレスト・シアターにて開催された、アジア・アメリカ映画を祝す国際フィルムフェスティバル「SINGAFEST 2011」(ビッグフット・エンターテインメント主催)では、LIFETIME ACHIEVEMENT AWARDを受賞。同年11月、徳島県鳴門市で生産・販売されている「本格焼き芋焼酎“斬”」の監修を担当した。2013年(平成25年)3月10日、日本体育大学から正式に卒業を授与され、これにより最終学歴は「日本体育大学体育学部体育学科卒業」となり、学校教育法第104条および学位規則第2条の規定(3年以上の在籍で100単位以上の取得。その後の社会的な活躍や貢献によって、特別卒業認定証を授与する)に従って「学士(体育学)」の学位が与えられた。2014年(平成26年)、テレビドラマ『おわこんTV』に主演。テレビ業界のウラのウラまで知り尽くす名物社長を、存在感醸し出しながらも軽いタッチで演じ、同ドラマは文化庁芸術祭参加作品となった。2020年(令和2年)、文化活動に優れた成果を示し、文化振興や日本文化の海外発信・国際文化交流に貢献したとして、令和2年度文化庁長官表彰をされた。2021年(令和3年)6月、子供たちに自身の企画やアイデアを受け継いでもらう願いと「いまのうちにきちんとしておきたい」という思いから、個人事務所「ルイアンドリーブス」を「エム&リーヴス」へ設立し直した。晩年、スティーブン・セガールとW主演での映画や、ジェシー・ベンチュラとウェズリー・スナイプスと共演するハリウッド映画も撮影予定であったが、コロナウイルスのパンデミックにより撮影が延期になっていた。同年7月末、新型コロナウイルス感染症 (COVID-19) に感染。咳などの症状はあったが、元気だったので、そのまま自宅療養を続けていた。しかし、8月4日に38.8度の熱を発し、PCR検査の数値も悪く、肺炎が悪化したことから救急車で搬送され、8日に入院した。酸素吸入などの治療を受け、一時は回復する兆しがあったものの、容体は急変。18日あたりから意識がなくなり、8月19日17時26分、新型コロナウイルス感染症 (COVID-19) による肺炎のため千葉県木更津市の君津中央病院で死去。享年82。本人の意思で、COVID-19ワクチンを接種していなかった。没後の2022年(令和4年)3月27日に開催された第94回アカデミー賞では、イン・メモリアム(授賞式恒例の追悼コーナー)にて、「SONNY CHIBA ACTOR MARTIAL ARTIST」と紹介され、俳優だけでなく、格闘家としても、その偉業をたたえられた。


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日本を代表するアクションスター・千葉真一。自らスタントをこなすアクション俳優の草分けとして、映画やテレビドラマで活躍。志穂美悦子、真田広之、伊原剛志、堤真一などの後進の育成にも力を注ぎ、アクション界の発展に尽くした。また、「サニー・チバ」の愛称で海外においても活躍。日本国外の熱烈なファンとして、キアヌ・リーブス、クエンティン・タランティーノ、ブルース・リー、マイク・タイソンらが挙げられ、世界の映画人や著名人に影響を与えている。そんな彼が、新型コロナワクチンの陰謀論を信じてしまい、非業の死を遂げてしまったことは大変残念であった。口を開けば資金調達が困難そうな映画構想、76歳で22歳の女子大生と交際、非科学的な水素水を信じてしまうなど、純粋すぎるエピソードが満載のスーパースター・千葉真一の墓は、千葉県君津市の満隆寺墓地にある。洋型の墓には「前田家」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は、浄土真宗の方が「映照院釋真心居士」。死の約2年前に信心したとされる日蓮正宗の方は「精進院眞道法禎居士」。

Commented by 通りすがりのカンカイ at 2023-08-18 16:57 x
こんにちは。投稿いただきありがとうございます。お写真の法名の件ですが、「院釋」がついておりますので曹洞宗ではなく浄土真宗の法名だと思われます。若山騎一郎さんのインタビュー記事でも「浄土真宗」と書かれております。
https://www.nikkansports.com/m/entertainment/news/202110170001037_m.html
Commented by oku-taka at 2023-08-19 09:47
> 通りすがりのカンカイさん
ご指摘ありがとうございました。さっそく修正させていただきました。
by oku-taka | 2023-08-16 13:21 | 俳優・女優 | Comments(2)