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安岡力也(1947~2012)

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安岡 力也 (やすおか りきや)

俳優・タレント
1947年(昭和22年)〜2012年(平成24年)

1947年(昭和22年)、宮城県仙台市に生まれる。シチリアンマフィアの祖父と父を持ち、イタリア人の父と日本人の母の間にジェノヴァで生まれる。6歳のとき、父の死亡に伴い日本へ帰国したとされる。一方、東京スポーツで生前に掲載された自身の連載「息子へ」では、祖父・父ともシシリーのマフィアであり、米軍と癒着していた関係で来日し、日本人で教師の母との間に宮城県仙台市で生まれた。その後、母親と転居を繰り返した後、4歳から埼玉県行田市の祖母宅で育った。父は表向きは貿易商でイタリアと日本を往復したため、父が日本にいる時は麻布の父宅によく行ったが、イタリアで育ったことはないと話している。高校時代は4000人を率いる総番長だったが、校内暴力はせず、喧嘩相手は番長のみであったという。1963年(昭和38年)、内田裕也への憧れ、また「もてたい」という思いから、野沢裕二、鈴木忠男、山岡健二、加古幸子(後のサリー・メイ)で歌って踊れる異色の混血グループとして「シャープ・ホークス」を結成。同年5月の日劇ウエスタンカーニバルで初舞台を踏む。シャープ・ホークスと並行し、一時期はヘビー級とミドル級でキックボクサーをしており、4試合で3勝1敗の成績を残した。1964年(昭和39年)、東宝映画『自動車泥棒』に日本脱出を夢見る混血孤児たちのリーダーとなる酋長役で主演。1966年(昭和41年)、グループ・サウンズ「シャープ・ホークス」として、シングル『ついておいで』でキングレコードよりレコードデビューを果たす。同年末に発売したシングル『遠い渚』がスマッシュヒットとなるが、1967年(昭和42年)12月のレコード会社移籍に伴い契約問題からバッキング演奏が不可能となり、1968年(昭和43年)にバンド形態のザ・シャープ・ホークスへと再編するも1969年(昭和44年)に解散した。その後、新生シャープ・ホークスを結成して再スタートするが、シングル一枚のみで解散した。グループ解散後は主に俳優として活動。東映では若山富三郎の派閥に属して、山城新伍の下についていた。しかし、共演者に蹴りを入れるなどの傷害事件を起こし、業界から干されてしまう。その後、建設会社の現場監督、内田裕也の事務所で経理をしていたが、梅宮辰夫の口利きで梅宮主演映画『不良番長シリーズ』にレギュラー出演して芸能界に復帰。1973年(昭和48年)、千葉真一の主演作品『ボディガード牙シリーズ』を皮切りに、キックボクシングの経験と体格の良さで、東映が製作する千葉や志穂美悦子主演の格闘映画に次々と出演。悪役に加え、義理人情に厚い役どころで存在感を見せた。 また、1975年(昭和50年)の映画『少林寺拳法』に出演をしたのが縁で少林寺拳法を稽古し、最終的に伍段を允許されている。1982年(昭和57年)11月、『オレたちひょうきん族』の1コーナーである「タケちゃんマン」に出演中、台詞である「ほら貝」を「ほたて貝」と思わず間違えて言ってしまったのをきっかけに「ホタテマン」として出演。「ひょうきんベストテン」のコーナーにてホタテマンを演じて更に評判となり、『ホタテのロックンロール』をリリース。民放の歌番組にも出演し、約40万枚のヒット曲となった。これがきっかけでホタテ普及に貢献した事が認められ、後日北海道のホタテ漁業組合から感謝状が贈られた。これまで子供嫌いだった安岡は、これを契機に子供好きとなり、特に1984年(昭和59年)の結婚後に生まれた長男に対する愛情は非常に深く、息子の学校行事によく参加していた。一方、ホタテマン以降はバラエティ番組にも進出し、強面の風貌とは裏腹に洒落というのを自身で理解出来ており、バラエティ番組などでも重宝されていた。2001年(平成13年)、春日井製菓のコマーシャルで「黒飴マン」に扮した。2002年(平成14年)、肝臓に水が溜まるようになり、肝機能が低下。、検査をしたところ、C型肝炎に罹患していることが判明した。2005年(平成17年)には汗醸に小さな癌が見つかったことから入院。一時復帰したが、2006年(平成18年)6月下旬にギラン・バレー症候群のため東京都内の病院に入院。同年7月から出演予定だった舞台を降板し、2008年(平成20年)には山梨県の病院でリハビリをしていた。2010年(平成22年)、5月17日放送の『徹子の部屋』にリハビリ後の復帰初仕事として出演。しかし、同年8月30日から9月1日にかけ、肝細胞癌とC型肝硬変を発症。そのため、日本赤十字社医療センターで長男の提供による生体肝移植手術を受けた。42時間という長時間に及んだ手術は無事に成功したが、感染症や合併症の恐れから、予断を許さない状態が続いた。2012年(平成22年)4月6日、容態が急変。血圧も50まで低下したが、一時小康状態を保った。しかし、同年4月8日午前6時1分、心不全のため東京都千代田区の病院で死去。享年64。


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強面な風貌ながら、特異なキャラクターでお茶の間に愛された安岡力也。身長187cm、体重108kgという強靭な肉体を誇り、その風貌で存在感のある悪役やチンピラを演じた。派手な女性関係、1日ビール20本、ボトル4本を空けるなど、数々の武勇伝を持つ芸能界の暴れん坊であったが、一転して「ホタテマン」に扮し、そのコミカルな演技のギャップさが受けて大ブレイク。1990年代には日本テレビ系のバラエティー番組でその姿をよく見かけた。そんな彼がギラン・バレー症候群に冒されたこと、テレビ復帰回『徹子の部屋』を見たときに、強靭な体は痩せ、声も何とか搾り出すかのような状態だったことに大変衝撃を受けた。まもなく容態が悪化し、完全に復帰できないまま世を去ってしまった安岡力也の墓は、千葉県君津市の圓明院にある。紋様と薔薇の花が刻まれた赤茶色の墓には「Always with You. 安岡家」とあり、背面に墓誌、また若かりし頃の安岡力也の写真が設置されている。戒名は「鑑薔院濤力仁道大居士」。

by oku-taka | 2023-08-16 13:01 | 俳優・女優 | Comments(0)