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星野道夫(1952~1996)

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星野 道夫(ほしの みちお)

写真家
1952年(昭和27年)〜1996年(平成8年)

1952年(昭和27年)、千葉県市川市に生まれる。慶應義塾高等学校在学中に北米大陸への旅行を計画し、地下鉄工事等さまざまなアルバイトをして旅費を貯め、父の理解と援助を得て、1969年(昭和44年)に移民船あるぜんちな丸でロサンゼルスへ渡り、約2ヶ月間アメリカを一人で旅する。1971年(昭和46年)、慶應義塾大学経済学部に進学。大学時代は探検部で活動し、熱気球による琵琶湖横断や最長飛行記録に挑戦した。19歳のとき、神田の洋書専門店で購入したアラスカの写真集を見て、同書に掲載されていたシシュマレフを訪問したいと村長に手紙を送ってみたところ、半年後に村長本人から訪問を歓迎する旨の返事がきたことから、1973年(昭和48年)の夏、日本から何回も航空機を乗り継いでシシュマレフに渡航。現地でホームステイをしながらクジラ漁についていき、写真を撮ったり漁などの手伝いをしたりしながら3ヶ月間を過ごす。帰国してから指導教官にアラスカでのレポートを提出し、なんとか卒業単位を取ることができたという。慶大卒業後、動物写真家である田中光常の助手として写真の技術を学ぶはずだったが、助手としてはカメラの設置や掃除・事務所の留守番などの雑用ばかりで、2年間で職を辞した。1978年(昭和53年)、アラスカ大学フェアバンクス校の入試を受験。英語(英会話)の合格点には30点足りなかったが、学長に直談判して野生動物管理学部に入学した。その後、アラスカを中心にカリブーやグリズリーなど野生の動植物や、そこで生活する人々の魅力的な写真を撮影した。しかし、アラスカ大学の方は結局中退してしまう。1986年(昭和61年)、写真集『グリズリー』で第3回アニマ賞を受賞。1990年(平成3年)、『Alaska 極北・生命の地図』『Alaska 風のような物語』で第15回木村伊兵衛写真賞を受賞。1996年(平成8年)7月25日、TBSの人気動物番組『どうぶつ奇想天外!』の撮影の為、ロシアのカムチャツカ半島南部のクリル湖畔を訪問。星野の持ち込み企画であり、「ヒグマと鮭(サケ)」をテーマに撮影する予定で、星野の他にTBSスタッフ3名とロシア人ガイド2名が同行していた。小屋には取材班とガイドの5名が泊まり、星野はそこから数m程離れた所にテントを張り、1人でそこに泊まることにした。そのとき小屋の食糧がヒグマにあさられていた形跡をガイドが発見している。7月27日、別のアメリカ人写真家が現地を訪れ、星野のテント近くにテントを張ったが、その夜、写真家は金属音で目が覚めた。外に出ると小屋の食糧庫にヒグマがよじ登り、飛び跳ねていた。ヒグマは体長2 m超・体重250 kgはある巨大な雄クマで、額に特徴的な赤い傷があった。アメリカ人写真家が大声を出して手を叩くとヒグマは跳ねるのを止め地面に降りると、今度は星野のテント後方に周りはじめた。その最中、星野がテントから顔を出したので、写真家は「あなたのテントから3 mにヒグマがいる」と警告した。星野は「どこ?」と返す。「すぐそこ。ガイドを呼ぼうか?」と写真家が聞くと「うん呼んで」と答えたので、写真家は小屋のドアを叩いてヒグマが出たとガイドに告げた。小屋から出てきたガイドは鍋を叩き鳴らしながら近づき、7-8 mあたりでクマ除けスプレー(以下スプレーと略)をヒグマに向けて噴射したが、ヒグマには届かなかった(なお、同地は自然保護区のため銃の所持・使用は禁止されている)。その後もスプレーを掛けようとガイドは悪戦苦闘するが上手くいかず、やがてヒグマはテントから離れていった。このため、ガイドたちは星野に小屋で寝るよう説得したが、星野は「この時期はサケが川を上って食べ物が豊富だから、ヒグマは襲ってこない」として取り合わなかった。一方でアメリカ人写真家は身の危険を感じ、近くの鮭観察タワーに宿泊した。8月1日、環境保護団体のグループが訪れ同地でキャンプをしたが、靴をヒグマに持ち去られたり、写真家が不在だった鮭観察タワーに泊まった1人は、一晩中タワーによじ登ろうとするヒグマに怯え眠れなかったという。8月6日夜、再度星野のテント近くにヒグマが現れて、ガイドがスプレーで追い払った。ガイドは再び強く小屋への移動を勧めたが、星野はこの時も聞き入れなかったという。8月8日深夜4時頃、星野の悲鳴とヒグマのうなり声が暗闇のキャンプ場に響き渡った。小屋から出てきたTBSスタッフは「テント!ベアー!ベアー!」とガイドに叫んだ。ガイドが懐中電灯で照らすとヒグマが星野を咥えて森へ引きずっていく姿が見えた。ガイドたちは大声をあげシャベルをガンガン叩いたが、ヒグマは一度頭をあげただけで、そのまま森へ消えていった。テントはひしゃげていてポール(支柱)は折れ、星野の寝袋は切り裂かれていた。ガイドが無線で救助を要請し、ヘリコプターで到着した捜索隊は上空からヒグマを捜索し、発見すると射殺した。星野の遺体は森の中でヒグマに喰い荒らされた姿で発見された。享年43。星野は「野生のヒグマは遡上する鮭の多いこの季節に人を襲わない」との考えからテントに泊まり続けたが、今回星野を襲ったのは地元テレビ局の社長によって餌付けされていたヒグマで、人間のもたらす食糧の味を知っている個体であった。さらにこの年は鮭の遡上が遅れ気味で、食糧が不足していた。死の直前まで撮影された星野の映像は遺族の意向もあり、「極東ロシアヒグマ王国~写真家・星野道夫氏をしのんで~」と題し、後日放送された。


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アラスカに魅せられた写真家・星野道夫。学生時代に出会ったアラスカの写真集に感銘を受け、自らもアラスカを拠点に活動する写真家となった。自然の風景・動物たちの営み・人々の暮らしを撮影する一方、独特の優しみのある口調でテレビ番組にも積極的に出演した。生前、NHKのインタビューで「銃は基本的には持たない んですよね。もし自分が銃を持ってるとそういう緊張感がなくなっちゃうんです」と語り、インタビュアーで同じ写真家の篠山紀信からその危険さについて指摘されても頑なにその信条を変えなかった。しかし、動物番組の取材でヒグマの食害に遭い、43歳という若さで死去。遺体はヒグマに喰い荒らされた姿で発見されたそうだが、死に顔は穏やかな笑顔であったそうで、それだけはせめてもの救いかもしれない。動物たちに信頼を寄せ続けた写真家・星野道夫の墓は、千葉県市川市の市川霊園にある。墓には「星野家之墓」とあり、右横に略歴及び「生命の光を さがしもとめて 道夫は逝く 安かれ」と刻まれた碑が建つ。

by oku-taka | 2023-08-11 20:00 | 芸術家 | Comments(0)