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佐野修(1937~2019)

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佐野 修(さの おさむ)

歌手
1937年(昭和12年)〜2019年(平成31年)

1956年(昭和31年)、ハワイアンソングを中心に活動していた「ダニー飯田とパラダイス・ハーモニー」が「ダニー飯田とパラダイス・キング」に改名し、それにあたってボーカル担当として加入。その後もハワイアンバンドとして活動し、米軍キャンプでの活動が多かったが、1957年(昭和32年)に第2回日劇ウエスタンカーニバルに出演。以後第15回まで連続出演すると、徐々に人気が高まってくる。1958年(昭和33年)頃からはロックバンドになっていき、1959年(昭和34年)9月にビクターレコードからアルバム『ジュークボックスで逢いましょう』でレコードデビュー。1960年(昭和35年)、東芝レコードに移籍。8月、移籍後第一弾シングル『悲しき六十才』が10万枚を超える大ヒットとなる。佐野はB面曲『恋のホームタウン』でメインボーカルを担当した。11月には『電話でキッス』で初の表題曲のメインボーカルを務め、ヒットとなった。1962年(昭和37年)、第13回NHK紅白歌合戦に『グッドバイ・ジョー』で初出場。しかし、坂本九、石川進、九重佑三子と人気メンバーが次々に独立。その後、幾度かのメンバーチェンジを経ながらも、佐野はパラキンのメンバーとして活動を続けた。1983年(昭和58年)から1987年(昭和62年)まではハワイ各地でコンサートを開催。1999年(平成11年)、リーダーのダニー飯田が腎不全のため死去。これによりパラダイス・キングも解散となった。ダニー没後、解散時の主要メンバーを中心にパラダイス・キングのメンバーとして活動を続け、パラキンのオリジナルメンバー最後の“生き残り”として知られた。2019年(平成31年)1月20日、死去。享年81。その訃報は、同年3月7日に佐野の友人でライブハウス「新宿ケントス」代表取締役の瀬戸盛義によって明らかにされた。


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ニコニコした笑顔とリーゼントのヘアースタイルが特徴的だった佐野修。日本におけるアメリカンポップスブームを築いた「ダニー飯田とパラダイス・キング」のメンバーとして活躍し、坂本九、石川進、九重佑三子といった人気メンバーが次々に独立をしたが、彼だけはグループに残り続けた。そのために歌手としては大成しなかったが、パラダイス・キング最後の生き残りとして、クシャッとした笑顔・リーゼントヘアー・甘くねちっこい歌声は晩年まで変わることがなかった。晩年はカヴァーポップス全盛期の貴重な証言者として、亡くなる直前まで元気な姿を見せていたという佐野修の墓は、千葉県松戸市の龍善寺にある。墓には「佐野家之墓」とあり、左側に墓誌が建つ。戒名は「釋修道修士」。

by oku-taka | 2023-07-30 19:19 | 音楽家 | Comments(0)