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土門拳(1909~1990)

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土門 拳(どもん けん)

写真家
1909年(明治42年)〜1990年(平成2年)

1909年(明治42年)、山形県飽海郡酒田町鷹町(現在の酒田市相生町)に生まれる。1916年(大正5年)、一家で東京へ移住し、その後、横浜市磯子区へ移転、同市の神奈川区へと移転。二ッ谷小学校へ編入したこの頃から絵画を描きはじめ、1926年(大正15年)には十五号の薔薇の油彩で横浜美術展覧会に入選した。1927年(昭和2年)、考古学に興味を持ち、学校の周囲で土器や石器掘りに熱中する。1928年(昭和3年)、旧制神奈川県立第二中学校(現在の神奈川県立横浜翠嵐高等学校)を卒業。日本大学専門部法科に進学するが、画家になることを志望して中退。逓信省の倉庫用務員として働き始める。しかし、自らの画才に限界を感じ、1939年(昭和4年)に日本大学専門部法学科へ入学。1930年(昭和5年)、法律勉強のため弁護士事務員となるが、1932年(昭和7年)に農民運動へと参加し、検挙される。1933年(昭和8年)、母の勧めで遠縁にあたる宮内幸太郎の写真場に内弟子として住み込み、写真の基礎を学ぶ。1935年(昭和10年)、電車内であくびをする幼い兄弟をダゴール付きアンゴー8×10.5cm(手札)判でスナップ撮影した「アーアー」が『アサヒカメラ』10月号で月例第一部(初心者)二等に初入選。その号に出ていた名取洋之助主宰の第2次日本工房の求人広告に応募し、名取のもとで報道写真を撮り始める。しかし、著作権の帰属が原因で2人は対立。名取は、ドイツのウルシュタイン社で報道写真家として活躍していた背景から、写真は芸術でも個人の作品でもなく、編集者ひいては雇用者である企業が著作権を持つ物であると考えていた。これに対し土門は、写真は表現手段の1つであり、個人の芸術的な所産だと考えていた。また、1936年 (昭和11年)に当時アメリカ滞在中であった名取は、グラフ誌「ライフ」に土門の作品を名取名義で発表し、このことに土門は怒った。同年、日本工房発行の欧文雑誌『NIPPON』の記事作成のため、伊豆を取材。この時撮影した「伊豆の週末」や「かんじっこ」などは、初期の土門の傑作となった。1937年(昭和12年)、早稲田大学の卒業アルバムの写真撮影を担当。これは実質的に土門の初めての作品集となる。1938年(昭和13年)、タイムライフ社からの依頼により、当時外相を務めていた宇垣一成を取材。同時に取材していた木村伊兵衛を出し抜き、「ライフ」誌に「KEN DOMON」の特注のスタンプを捺した自分の作品を投稿した。その記事「日曜日の宇垣さん」は採用され、ライバルの木村はもとより、名取への大きな反撃となった。同年、濱谷浩、藤本四八、光墨弘、田村茂、林忠彦、加藤恭平、杉山吉良らと「青年報道写真研究会」を結成。1939年(昭和14年)、日本工房を退社し、外務省の外郭団体国際文化振興会の嘱宅となる。これにより名取との仲は決裂し、後に土門は師の名取の葬儀にも参列をしぶる程になってしまった。1940年(昭和15年)、「日本報道写真家協会」を結成。1941年(昭和16年)、文楽の撮影を開始する。また、徴兵検査を受けるが不合格となり帰郷した。第二次世界大戦中は、名取洋之助を批判しつつも、それとは別の視点から国策に協力し、海外向け写真誌に掲載する写真の撮影を請け負った。1943年(昭和18年) 、写真雑誌「写真文化」に掲載した人物写真に対してアルス写真文化賞を受賞。1945年(昭和20年)、敗戦により外郭団体国際文化振興会が解散したため、フリーランスの写真家となる。1946年(昭和21年)、古寺の撮影を本格的に開始する。1950年(昭和25年)、木村伊兵衛とともに三木淳の結成した「集団フォト」の顧問に就任。また、木村とともに「カメラ」誌の月例写真審査員にもなり、写真一枚一枚について詳細な批評を加え、懇切丁寧にアマチュア写真家を指導した。投稿者にはのちに著名となる東松照明、川田喜久治、福島菊次郎らがおり、土門は「月例土門」と称された。土門はこれを通じて自らの社会的リアリズムを一つの運動として盛り上げようと試み、「社会的リアリズム」を提唱。「絶対非演出の絶対スナップ」を主張し、土門は一時絶大な支持と人気を集めることに成功した。当時、リアリズム系の写真家として、木村と双璧をなしたが、木村は「写真はメカニズムである」と捉えたのに対し、土門は「カメラは道具にすぎず、写真を撮るのは人間であり、思想である」と捉えていた。土門は様々なジャンルの写真作品を撮影しているが、いずれにおいても、完全な没個性(無記名)という報道写真ではなく、自分の個性を重視した。その結果、日本の写真界に一時期を画した形となったが、運動の成果は土門の満足の行くものではなかった。また、土門の「社会的リアリズム」に対して様々な誤解や非難もなされ、リアリズムを単なるスナップ写真と解釈する者がいたり、「パンパン」や浮浪児、傷病兵など、当時の社会の底辺にカメラを向ける土門やその影響下にあるアマチュア写真家の一群の写真を評して乞食写真という批判をなす者もいた。1953年(昭和28年)、江東区の子どもたちを撮りはじめる。この頃からカラーフィルムを使いはじめる。同年、肖像写真集『風貌』を刊行。1954年(昭和29年)、写真集『室生寺』を刊行し、翌年に毎日出版文化賞、日本写真協会功労賞を受賞する。1955年(昭和30年)、最初の個展「江東のこどもたち」を開催。1958年(昭和33年) 、カメラ誌「フォトアート」月例審査員を約10年間断続的に務める。同年、原爆問題を取り上げた写真集『ヒロシマ』を刊行し、第4回毎日写真賞、第2回日本写真批評家協会作家賞を受賞。また、翌年には第10回芸術選奨をも受賞した。1960年(昭和35年)、写真集『筑豊のこどもたち』を100円で刊行し、第10回日本写真協会年度賞、第3回日本ジャーナリスト会議賞を受賞。翌年には、同書に対し第2回毎日芸術賞が贈られた。続編『るみえちゃんはお父さんが死んだ』を完成直後、脳出血を発症。回復後、大型カメラによる『古寺巡礼』の撮影を開始。1961年(昭和36年)の『法隆寺』『室生寺』を皮切りに、『春日大社』、『古寺巡礼』第1〜4集と刊行し、土門のライフワークとなった。また、古美術商の近藤金吾の知己を得、骨董に興味を持つ。1961年(昭和36年)、「芸術新潮」に『私の美学』を連載。1962年(昭和37年)、装幀家の菅野梅三郎との交流がきっかけとなり古陶磁の撮影を始める。1963年(昭和38年) 、7月に創刊された平凡社の雑誌「太陽」の連載記事「日本のあけぼの」の写真を手がける。以降、草柳大蔵とのコンビで『日本名匠伝』を連載したり、東大寺のお水取りの取材、依頼を受けて屋久島の藪椿や石楠花を撮影するなど、雑誌「太陽」の仕事を多く引き受けた。1966年(昭和41年)、土門が撮影を担当した勅使河原蒼風の作品集「私の花」を刊行。また、考古学研究書『日本人の原像』を刊行。芹沢長介と坪井清足がテキストを執筆、福沢一郎が挿画、土門が写真を担当した。同年、日本リアリズム写真集団の顧問に就任。1968年(昭和43年)、10年ぶりに再び広島を取材し、写真展「失意と憎悪の日々-ヒロシマはつづいている」を開催。6月、雑誌「太陽」の取材で滞在していた山口県萩市で二度目の脳出血を発症し、九州大学付属病院に緊急入院。右半身不随となるが、左手で水彩画を描いたりしてリハビリテーションに励む。撮影は助手として同行していた弟の牧直視が引き継ぎ、同誌の9月号に特集記事として掲載される。1969年(昭和44年)6月、長野県鹿教湯温泉にある東京大学療養所に転院。リハビリテーションを続ける。1970年(昭和45年)、車椅子にて撮影を再開。以降は風景写真を数多く撮る。1971年(昭和46年)、古寺巡礼』の業績に対し第19回菊池寛賞を受賞。 1974年(昭和49年)、初めての随筆集『死ぬことと生きること』を刊行。同年、紫綬褒章を受章。1976年(昭和51年)、初めての風景写真集『風景』を刊行。1978年(昭和53年)3月、初めて雪景の室生寺を撮影。またこの時に初めてストロボを使用する。1979年(昭和54年)9月11日、脳血栓を発症。昏睡状態となる。1980年(昭和55年)、勲四等旭日小綬章を受章。1990年(平成2年)9月15日午前3時40分、11年間の昏睡状態を経て、心不全のため東京都港区の虎の門病院で死去。享年80。


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リアリズム写真の大家・土門拳。「絶対非演出の絶対スナップ」を掲げ、独自のスタイルを確立。時代と社会、芸術と文化、写真とは何かを情熱的に論じ、写真界に大きなブームを巻き起こした。対象としたのは、庶民や著名人といったポートレートから、基地問題や広島の原爆などに目を向けた社会的事象、仏像や文楽といった日本の伝統文化など実に幅広く、特に各地の寺院をテーマとした「古寺巡礼」シリーズはライフワークとなった。2度にわたる脳出血の発作から復活し、右半身不随となりながらも助手に車椅子を押させ、山上まで担ぎ上げられながら撮影を続けた写真の鬼。それだけに、3度目の発症で11年間も昏睡状態に陥り、活動ができなくなってしまったことはさぞかし悔しかったであろう。土門拳の墓は、千葉県松戸市の八柱霊園にある。五輪塔の墓には何もないが、左横に建つ墓碑には「土門家代々乃墓所」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「至宝院釋拳真居士」。

by oku-taka | 2023-07-30 19:00 | 芸術家 | Comments(0)