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西條八十(1892~1970)

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西條 八十(さいじょう やそ)

詩人
1892年(明治25年)〜1970年(昭和45年)

1892年(明治25年)、東京府東京市牛込区牛込払方町(現在の東京都新宿区払方町)に生まれる。生家は石鹸の製造販売業で財を成し、輸入商も営む資産家だった。1898年(明治31年)、桜井尋常小学校に入学。その後、旧制早稲田中学校(現在の早稲田中学校・高等学校)に進学。土井晩翠の詩集に感銘を受け、「国語漢文辞典」を丸暗記、ロングフェローの『雨の日』を翻訳してしまうなど、文学を志すようになる。また、イギリスの婦人に直接英語を学んだ。在学中、後にフランス文学者となる当時教師の吉江喬松と出会い、生涯の師と仰ぐ。吉江に箱根の修学旅行で文学で身を立てたいと打ち明け、激励を受ける。1909年(明治42年)に早稲田大学文学部英文科へ入学。しかし、2ヵ月で退学し、神田の正則英語学校(現在の正則学園高等学校)に通って英語を勉強し たり、九段の暁星中学校の夜間部でフランス語の初歩を学んだ。1911年(明治44年)、早稲田大学文学部英文科に再入学。また、家庭の事情により東京帝国大学国文選科にも籍を置いた。在学中、三木露風、川路柳虹らの『未来』に同人として参加。1912年(明治45年)には、日夏耿之介らと同人誌『聖盃』(後に『仮面』と改題)を刊行し、マラルメやメーテルリンクら広く海外文芸を紹介し論評した。しかし、8歳年上の兄が実家の全財産を持ち出した末、芸者と駆け落ちしてしまったことから生家は没落。家族を養うため家庭教師を始める。1914年(大正3年)、友人に誘われて株式投資を始めたところ、巨額の利益を得る。これにより、英語雑誌の翻訳や編集の仕事を行うようになる。1915年(大正4年)、大学を卒業。しかし、詩壇で自由詩運動が起こり、定型詩は消滅。文語の彫琢も不必要という悲運に遭遇した。1918年(大正7年)、鈴木三重吉に誘われ、鈴木が創刊した児童雑誌『赤い鳥』に参加。11月号に童謡詩として『かなりや』を発表すると、1919年(大正8年)5月号に楽譜の付いた初めての童謡として掲載。成田為三の作曲した童謡『かなりや』は大きな反響を呼び、音楽運動としての様相を見せるようになった。以降ほぼ毎月、童謡を1編発表することとなり、北原白秋や野口雨情と並び称された。同年、自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立した。しかし、大学内で資本家側の人間として批判の対象になってしまい、文壇内でも「売文詩人」として批判され孤立。妻の勧めもあり、1924年(大正13年)よりフランスに渡り、2年間ソルボンヌ大学に留学。ポール・ヴァレリーらと交遊を持った。帰国後、早稲田大学文学部文学科の教授に就任。フランス文学の研究に打ち込む一方、詩人としては詩集『見知らぬ愛人』、『美しき喪失』、訳詩集『白孔雀』などを刊行した。1927年(昭和2年)、日夏耿之介の従弟で日活の宣伝部長を務めていた樋口正美から依頼を受け、日活映画『椿姫』の主題歌『椿姫の歌』を作詞。1929年(昭和4年)、菊池寛の小説『東京行進曲』が映画化されると、再び樋口から主題歌を頼まれ『東京行進曲』(歌:佐藤千夜子)を作詞。中山晋平が作曲した同曲は、25万枚を売り上げる空前の大ヒットとなった。続けて作詞を担当した『女給の唄』(歌:羽衣歌子)も大ヒット。さらに、『わたしこのごろ変なのよ』『アラその瞬間よ』(いずれも歌:藤野豊子(四家文子の別名))といった曲も手がけ、エロ艶歌ブームを巻き起こした。1930年(昭和5年)、詩誌『鑞人形』を創刊。1932年(昭和7年)、有楽町の商店街の旦那衆(日比谷松本楼の小坂光雄、更科の藤村源三郎、富可川の井上忠次郎、都亭の岩佐善三郎、並木の森平四郎)が、不況を吹き飛ばす景気づけとして都会の盆踊りを企画し、ビクターに音頭の作成を依頼。作詞を西條、作曲を中山晋平が手掛け、歌は日本橋葭町の芸者だった藤本二三吉(当時は葭町二三吉)と、民謡歌手の三島一声がそれぞれ吹き込んで、『丸の内音頭』として発表された。その後、レコード会社が「隅田」「武蔵野」などを入れて東京一円のご当地ソングとして売り出し、その人気を感じたビクターは、それを全国的に流行させるため、西條に当時の東京市民すべてが歌えるように改詞を依頼。1933年(昭和8年)7月、『東京音頭』と改題して発売した。全十番から成る東京音頭は小唄勝太郎と三島一声の歌唱でレコード化され、卑猥さを連想させる歌詞もあって爆発的に流行した。ビクター社員は各地の盆踊りに電気蓄音機を持って行き櫓の上で踊り方を指導し、全国のレコード店でも踊っては手売りするなど宣伝に務め、レコードの売り上げは発売当時だけで120万枚に達した。以降は歌謡曲の作詞家としても活躍し、『サーカスの唄』(歌:松平晃)、 『蘇州夜曲』(歌:渡辺はま子・霧島昇)、『誰か故郷を想わざる』(歌:霧島昇)など無数のヒットを放った。また、西條の大衆音楽に対する活躍に共感した若者が集まり、佐伯孝夫、サトウハチロー、門田ゆたからを輩出した。日中戦争が始まると、他の従軍文士らとともに大陸に渡り、まず1937年(昭和12年)12月11日に読売新聞社の委嘱により南京総攻撃に従軍。南京陥落と同時に単身上海から揚子江を遡上して南京に到着。南京入場式を見て書き上げた「われ見たり入城式」は12月18日付の読売新聞に発表された。1938年(昭和13年)5月、『少年愛国詩集』を出版。9月には、陸軍の要請で音楽部隊の隊長として中支戦線に従軍した。1943年(昭和18年)6月、東宝映画が海軍飛行予科練習生の生活をテーマとした『決戦の大空』を制作することになり、主題歌『若鷲の歌』(歌:霧島昇・波平暁男)の作詞を担当。10月、学徒出陣の壮行会が明治神官で挙行され、西條は早大文学部教務主任として出席。しかし、1944年(昭和19年)3月に教務主任を辞任。4月からは週に二日だけ大学に出勤してフランス詩の講義を行なった。戦後は大学を辞し、1946年(昭和21年)に柳原白蓮を主人公にした映画の主題歌『麗人の歌』(歌:霧島昇)を作詞し、戦後初のヒットとなる。その後、『悲しき竹笛』(歌:近江俊郎・奈良光枝)、『三百六十五夜』(歌:霧島昇・松原操)、『青い山脈』(歌:藤山一郎・奈良光枝)など、手がけた曲が次々にヒット。特に1961年(昭和36年)に発表した村田英雄の『王将』は150万枚を超える売り上げを記録し、戦後初のミリオンセラーとなった。また、1953年(昭和28年)から日本音楽著作権協会の会長を務め、遅れていた日本の著作権発展に尽力した。1962年(昭和37年)、日本芸術院の会員に選出。1964年(昭和39年)、咽頭癌を発症。発見が早く、手術で取り除くことができたが、これを機に歌謡曲の作詞の仕事をセーブ。フランスの詩人であったアルチュール・ランボーの研究論文に力を注ぐことをライフワークとし、1967年(昭和42年)に大著『アルチュール・ランボオ研究』の完成に結実した。その後、16世紀以降のフランス詩人の伝記に取りかかっていたが、1970年(昭和45年)8月12日午前4時30分、急性心不全のため世田谷区成城の自宅で死去。享年78。


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象徴詩人として知られる西條八十。土井晩翠の詩を読み、七五調の詩に感銘を受けた彼は、大正期には童謡を、昭和の時代には数多の流行歌を世に送り出した。そんな西條を「売文詩人」と批判する声もあり、今日の詩壇では西條八十の評価は決して高いといえない。しかし、七五調の詩を追い求めていた西條にとって、自由詩運動による定型詩の消滅が詩人としての人生を大きく狂わせたのであり、彼は歌の世界に進んだことで七五調への強いこだわりを昇華させることができた。結果的に西條八十は昭和歌謡の源流となり、今でいうヒットメーカーの走りともなった。庶民の心情を詩に託し、童謡から戦時歌謡、流行歌に至るまで、ジャンルの広い分野で作品を手がけた西條八十の墓は、千葉県松戸市の八柱霊園にある。詩集をひろげたデザインの墓には「われらふたり、たのしくここに眠る、離ればなれに生まれ、めぐりあい、みじかき時を愛に生きしふたり、悲しく別れたれど、また、ここに、こころとなりて、とこしえに寄り添い眠る」とあり、その奥には大理石に「西條八十/西條晴子墓」と金文字で彫られている。

by oku-taka | 2023-06-11 13:58 | 音楽家 | Comments(0)