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山之口貘(1903~1963)

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山之口 貘(やまのくち ばく)

詩人
1903年(明治36年)〜1963年(昭和38年)

1903年(明治36年)、沖縄県那覇区(現在の那覇市)東町大門前に生まれる。本名は、山口 重三郎(やまぐち じゅうさぶろう)。童名は三郎(さんるー)。1917年(大正6年)4月、沖縄県立第一中学校(現在の沖縄県立首里高等学校)に入学。学校では標準語を用いる様に指導されたが反発し、わざと琉球語を用いた。また、ウォルト・ホイットマン、島崎藤村、室生犀星の詩を読み、大杉栄の影響を受けた。1918年(大正7年)頃から詩を書き始め、「さむろ」というペンネームで『八重山新報』に詩を発表した。1921年(大正10年)、一中を退学。1922年(大正11年)秋に上京して日本美術学校に入学。しかし、一か月後に退学する。1923年(大正12年)春、家賃が払えなくなって下宿屋から夜逃げをし、一中の上級生の友人と駒込の家に移住する。同年9月1日、関東大震災で罹災し、無賃で機関車と船に乗って帰郷する。しかし、父が事業に失敗し、自宅も売却されて家族は離散していた。沖縄に戻ってからは、石川啄木、若山牧水の歌、ラビンドラナート・タゴールの詩を読んだ。1925年(大正14年)の秋に再び上京。1926年(大正15年)から書籍取次店店員、暖房工事人夫、薬の通信販売、便所の汲み取り作業員等、様々な仕事をした。家が無いので公園や知人の家で寝泊りしていたため、警官の不信尋問にひっかかることがよくあった。同年11月、佐藤春夫に会い「このものは詩人で、善良な東京市民である。佐藤春夫」という証明書を書いてもらう。1929年(昭和4年)、東京鍼灸医学研究所の事務員になる。1930年(昭和5年)からは伊波普猷の家に住まわせて貰う。1931年(昭和6年)、『改造』4月号で初めて雑誌で詩を発表。以降は様々な雑誌に詩を発表する。1933年(昭和8年)、南千住の泡盛屋「国吉真善」で金子光晴と知り合う。その後、二人の交流は山之口が死ぬまで続いた。1936年(昭和11年)、鍼灸医学研究所を辞職。半年ほど隅田川のだるま船に乗る。1938年(昭和13年)8月、初の詩集『思弁の苑』を発表。1939年(昭和14年)6月から東京府職業紹介所(公共職業安定所)に職を得て、生まれて初めて定職についた。1940年(昭和15年)12月、第二詩集『山之口貘詩集』を山雅房から出版。1948年(昭和23年)3月、紹介所を辞職。以降は執筆活動に専念する。1958年(昭和33年)7月、第三詩集『定本山之口貘詩集』を発表。翌年、同著で第二回高村光太郎賞を受賞した。1963年(昭和38年)、胃に変調を感じて診断を受けたところ胃癌が発覚。入院費も手術代もなかったが、詩友の土橋治重、佐藤春夫、金子光晴、緒方昇、三越佐千夫たちが協力してカンパを集めた。同年3月に入院、同年7月16日に手術を受けるが、7月19日に新宿区戸塚の病院で死去。享年59。没後の1964年(昭和39年)12月、第四詩集『鮪に鰯』が刊行される。


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人間への深い洞察と生活を感じさせられる詩で知られる山之口貘。暖かみのある文体は数多の支持を集め、中学や高校の教科書に載るだけでなく、フォーク歌手が曲をつけて歌うなど、多くの人に親しまれた。彼が綴る作品には、住所不定の放浪生活と妻子を背負ったことによる貧乏さが背景にある。胃癌が発覚したときも、手術代はおろか入院費も用意できなかったことから、詩友たちが協力して支援をしたほどであった。どん底の中で詩を書き、放浪や貧乏、そして沖縄をうたった山之口貘の墓は、千葉県松戸市の松戸霊園にある。墓には「山口家之墓」とあるのみで、墓誌はない。

by oku-taka | 2023-06-11 13:51 | 文学者 | Comments(0)