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小松崎茂(1915~2001)

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小松崎 茂(こまつざき しげる)

画家・イラストレーター
1915年(大正4年)〜2001年(平成13年)

1915年(大正4年)、東京府北豊島郡南千住町(現在の東京都荒川区南千住町)に生まれる。高等小学校卒業後に日本画家を志望し、池上秀畝門下の日本画家・堀田秀叢に師事。花鳥画を学ぶが、やがて挿絵を志すようになり、秀叢の弟弟子で挿絵画家として人気のあった小林秀恒に学ぶこととなる。1938年(昭和13年)、小樽新聞に連載の悟道軒圓玉の講談小説『白狐綺談』の挿絵でデビュー。筆名は「恒方」とした。1939年(昭和14年)、科学雑誌『機械化』の挿絵として、戦争物や空想科学を題材にした絵を描き評判になる。自身が創案した新兵器をビジュアル化し、それを本名のほか「三村武」「最上三郎」といった筆名を使い分けるなどして『機械化』誌上を賑わせた。第二次世界大戦になると小松崎の描く挿絵は俄然注目されるようになり、少国民向け雑誌に戦記小説の挿絵や、軍艦、戦車、飛行機などの戦争イラストを数多く発表。戦時下の1943年(昭和18年)には、第2回陸軍美術展に『ただ一撃』、国民総力決戦美術展に『敵コンソリー爆撃機墜ツ』、第3回航空美術展に『ニュージョージヤ島の死闘』などの戦争画を出品した。しかし、1945年(昭和20年)の東京大空襲で生家は全焼し、それまでの資料やスケッチも灰になった。戦後の復興期、日本を占領した連合国軍に群がる子供達の姿を痛々しく思い、涙を流したという小松崎は、自分の絵で子供達を励ます事は出来ないかと考えるようになり、少年誌向けに表紙や挿絵を数多く担当。掲載された空想科学イラストは、当時の少年達に未知なるものへの想像力をかき立て、人気を博した。1948年(昭和23年)には子供向けの絵物語ブームが起こり、SF冒険活劇物語『地球SOS』が少年画報社の月刊誌「冒険活劇文庫」(後に「少年画報」へ改題)で作画連載され、山川惣治と人気を二分した。以後、『大平原児』『平原王』『第二の地球』など西部劇物語もの、科学冒険ものと幅広く執筆。幾つもの雑誌に掛け持ちで連載や口絵の仕事を抱え、寝る間もない程多忙な日々を送る大活躍を見せた。1950年代半ばを境に絵物語人気は漫画に押され凋落していったが、1960年代には戦争を知らない世代の子供達の間で戦記ブームが巻き起こり、各少年誌で戦記漫画、読み物が人気となる。これを受け、得意の緻密なメカイラストを活かし、細密で迫力のあるSFの世界・戦艦・戦闘機を雑誌に描き、特撮映画のデザインにも参加。また、テレビ全盛時代には『サンダーバード』などのキャラクター画も数多く手がけた。1961年(昭和36年)、タミヤが多額の金型開発費を投入し、社運をかけたモーターライズ戦車プラモデル「パンサータンク」を制作。プラモデルを販売する際の最大のアピールポイントである箱絵を小松崎に依頼し、タミヤの経営状況を知った小松崎は多忙であるにもかかわらず快諾した。製品はヒット商品となり、その後のタミヤの経営が軌道に乗るきっかけとなったことから、以後しばらくはタミヤを中心としたボックスアートを描き続け、初期の「タミヤ」ブランドのイメージ作りに貢献した。その後、今井科学も「小松崎メカニカルアート」に着目。当時のテレビ放映で話題だった『サンダーバード』のキャラクタープラモデルを製品化するにあたり、箱絵を託すべく小松崎の弟子の高荷義之に仲介を依頼し、小松崎の了解を得て描かれた。基地から飛び立つ迫力ある箱絵は、1967年(昭和42年)に発売された「サンダーバード2号」を空前の大ヒット・ブームをにする原動力となった。サンダーバードはシリーズ化され、殆どのボックスアートを小松崎が引き受けた。また、主役メカ以外のボックスアートにも必ず「サンダーバード2号」は描いて欲しいと今井科学の要望を受け入れ、すべての箱絵にそれが描き込まれた。当時の今井科学の1968年(昭和43年)度売上げ目標20億を上回る26億円を達成するほどに人気を博した結果、他のメーカーからも作画依頼が殺到することとなった。1970年(昭和45年)以降には、日本のプラモデル産業の成長に伴い、世界各国で需要がある戦車・飛行機・艦船模型輸出も活発に行われるようになった。それに伴い、箱絵の背景に描かれた「箱に入っていない物」は誤解を招き、輸出の障害となることが問題視される。輸出に力を入れ始めたタミヤでは、「背景には製品に含まれないアイテムは描かないこと」を依頼先の画家・イラストレーターらに通達し、タミヤでの箱絵の仕事は1971年(昭和46年)の1/700ウォーターラインシリーズの駆逐艦が最後となった。以後、国内市場が主力の模型メーカー・日東科学などの戦車AFVや、キャラクター・トイ向けのバンダイからの仕事が増え、得意とした動きのある構図・背景を生かした箱絵を手がけた。平成に入っても筆を置くことなく、MIX-UP・CDジャケットやPlayStation 2のメタルギアソリッド2限定版付属冊子内イラスト(これが商業イラストとしては最後の作品となった)など多方面に活躍した。1990年(平成2年)、画業をまとめた『小松崎茂の世界 ロマンとの遭遇』で日本美術出版最優秀賞を受賞。1995年(平成7年)1月、愛犬用の暖房からの出火が原因で自宅兼作業場が全焼。数万点に及ぶ作品と膨大な資料を焼失したものの「絵はまた描けばよい」と力強い創作意欲を見せ周囲を驚かせた。1996年(平成8年)、創刊された中古ゲーム雑誌『ユーズド・ゲームズ』の4号から15号までと一部の総集編の表紙を担当した。晩年は足腰こそ弱っていたが語り口は明瞭であり、インタビューを受けると2時間以上延々と喋り続けるほどに元気だったが、2001年(平成13年)12月7日午後9時26分、心不全のため死去。享年86。


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戦艦・飛行機・未来の乗り物をリアルなタッチで描き、一時代を築いた小松崎茂。戦記物やSF小説の挿絵またはイラストとして描いたその作品は、精緻かつ活き活きとしていて、当時の子供たちを夢中にさせた。特に、プラモデルの箱に使用されるイメージイラストを多く手がけたことは、彼の名声を不動のものとする要因となった。また、石ノ森章太郎、ちばてつや、川崎のぼる、松本零士といった名だたる漫画家たちが小松崎の影響を受けたことを公言しており、藤子不二雄Ⓐに至っては、ペンネームを「小松原滋」にしてサインも真似した程だったという。絵を通して戦後の子供たちに夢を与え続けた小松崎茂の墓は、千葉県松戸市の八柱霊園にある。2基ある墓のうち、一つは和型で「小松崎家之墓」とあり、もう一つは洋型で小松崎茂のサインが刻まれている。おそらく、納骨されているのは後者の方と推察される。墓誌は墓域の真ん中に建つ。戒名は「純徳院彩鳳茂仁大居士」。

by oku-taka | 2023-06-03 20:33 | 芸術家 | Comments(0)