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江上トミ(1899~1980)

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江上 トミ(えがみ とみ)

料理研究家
1899年(明治32年)〜1980年(昭和55年)

1899年(明治32年)、熊本県葦北郡田浦村(現芦北町)に、藤崎弥一郎(熊本県の大地主で地方銀行監査役)の六女として生まれる。1905年(明治38年)、田浦尋常小学校に入学。母の実家である江上家の跡取りとして入籍。 江上家は肥前国の守護大名の一族で、祖父は京都から料理人を呼び寄せて台所を任せた食通だったことから、熊本の山海の幸を母の手料理によって存分に味わいながら育つ。その母から色々な事を学び、8才の時には専用の包丁とまな板をあつらえてもらった。1912年(明治45年)、熊本市の私立熊本高等女学校(後の大江工女)に入学。しかし、第一高女受験勉強のため9月に退学。1913年(大正2年)、熊本市の熊本県立第一高等女学校に入学した。1917年(大正6年)、県立第一高等女学校を卒業。1919年(大正8年)、地主の次男で後に陸軍造兵廠技術官となる山田巌と結婚。巌は江上家へ婿入りし、京都市吉田山に新しく世帯を持つ。1920年(大正9年)、住居を東京・九段下の飯田町に移すが、間もなく青山に転居。1923年(大正12年)、関東大震災で被災し、渋谷に家を新築。1924年(大正13年)、東京料理学校に入学。ここで、日本料理・フランス料理・中華料理を学び、2年間通う。1927年(昭和2年)、巌の赴任から1年遅れてパリへ渡り、ル・コルドン・ブルー料理学校に入学。2年間学ぶ。1929年(昭和4年)、巌のロンドン赴任と共に渡英。半年後に帰国し、1931年(昭和6年)に知人に請われて渋谷の自宅で料理教室を開設する。1934年(昭和9年)、福岡県小倉市(現在の北九州市小倉北区)砂津に引越し、料理教室を開講。また、1936年(昭和11年)には料理の出張講義を始める。同年、小倉市(現在の北九州市小倉北区)田町に「江上料理研究会」を開設。1937年(昭和12年)、福岡市渡辺通4丁目のアパートに「江上料理研究会」福岡分室を設ける。しかし、戦争が激しくなり、1944年(昭和19年)に料理教室を閉鎖して熊本市に移る。その後、長男が広島市の理科教育専門の中学校に選抜されて入ったため、同行して広島市己斐に住む。1945年(昭和20年)、戦争責任を重く考えた巌が職を退き、終戦後トミが料理を教えることで生計を立てることになる。1946年(昭和21年)、福岡市天神の新天町のレストラン「ボン・マルセ」の中で料理教室を再開。1949年(昭和24年)、福岡市南薬院に「江上料理高等学院」を開設。1953年(昭和28年)、欧米各国の給食事情視察のためフランス、スウェーデン、イタリア、アメリカなどを訪問。1955年(昭和30年)東京の市谷に「江上料理学院」を開校。1956年(昭和31年)、日本テレビ放送網から、日本初のテレビ帯料理番組『奥さまお料理メモ』が放映され、赤堀全子、岡松喜与子と並んでレギュラーを務める。1957年(昭和32年)、NHKで『きょうの料理』が放送を開始。同番組に講師として初期より出演した。1958年(昭和33年)、長男が「江上料理学院」の生徒だった栄子と結婚。栄子とは料理研究のため外国への視察に同行させ、共著で多くの料理本を発表するなど良好な関係を築く。1964年(昭和39年)、故郷である熊本県田浦町の特産品「甘夏みかん」のポスターモデルになる。1975年(昭和50年)、藍綬褒章を受章。1980年(昭和55年)7月21日、心筋梗塞のため東京都内の病院で死去。享年80。没後、正六位勲五等宝冠章を追贈された。


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テレビ草創期に料理番組の講師として活躍し、そのジャンルにおいて草分け的存在となった江上トミ。太めな体型と熊本訛りの語り口、そして「江上スマイル」と呼ばれた独特の笑顔で人気を博した。また、自ら経営者として学園を創設し、家庭料理の普及に尽くした。「ご家庭の幸せは愛情を込めた料理から」を信条に、講師として、また経営者として料理一筋に生きた江上トミの墓は、千葉県松戸市の八柱霊園にある。墓には「江上家之墓」とあり、右横に墓誌が建つ。戒名は「浄華院釋尼妙富」

by oku-taka | 2023-06-03 20:24 | 衣・食・住 関係者 | Comments(0)