人気ブログランキング | 話題のタグを見る

松山恵子(1937~2006)

松山恵子(1937~2006)_f0368298_13302334.jpg

松山 恵子(まつやま けいこ)

歌手
1937年(昭和12年)〜2006年(平成18年)

1937年(昭和12年)、福岡県戸畑市(現在の福岡県北九州市戸畑区)に生まれる。本名は、岡崎 恒好(おかざき つねこ)。生後すぐに父の仕事の関係から東京へ引っ越すが、終戦後の食糧難のため、父の故郷の愛媛県宇和島市へ引っ越す。中学2年生で出場した「日本コロムビア全国歌謡コンクール」で10位入賞を果たし、関係者の注目を集めた。1954年(昭和29年)、歌手になるため家族全員で上京しようとしたが、東京行きの資金が足りず大阪へ途中下車して、大阪府大阪市淀川区に引っ越す。大阪エコー音楽学院の研究生となり、日本マーキュリーレコード全国歌謡コンクールで優勝。彼女の師である大阪エコー音楽学院の西脇稔和の薦めで『雪州音頭』を岡崎景子の芸名で日本マーキュリーレコードで初吹き込み。1955年(昭和30年)、芸名を松山恵子とし、『宵町ワルツ』『マドロス娘』でデビュー。1956年(昭和31年)、『十九の浮草』が大ヒットし、一気にスターダムへとのし上がった。1957年(昭和32年)には『未練の波止場』が大ヒットし、NHK紅白歌合戦にも初出場。以降、通算8回出場した。1958年(昭和33年)、『だから云ったじゃないの』も大ヒットし、歌詞の「あんた泣いてんのね」は流行語にもなった。しかし、同年に新興の東芝レコードに引き抜かれて移籍。1959年(昭和34年)、『お別れ公衆電話』が移籍後初の大ヒットとなった。以降、『泣いたって駄目さ』『東京なんて何さ』『思い出なんて消えっちゃえ』『アンコ悲しや』『別れの入場券』などのヒット曲を飛ばしたが、1969年(昭和44年)交通事故に遭い、瀕死の重傷を負う。後遺症から約3ヶ月も声が出なくなったが、必死のリハビリにより奇跡的にカムバック。ファンからのアイデアにより、フランス人形のような派手なドレス姿とハンカチを振る姿をトレードマークに歌番組へ出演。その親しみやすい人柄から“お恵ちゃん”の愛称で庶民派歌手として活躍した。晩年は裾幅3.5メートル、重さ20〜30キロのドレスを着込んで歌うという年齢を感じさせないステージが多くの世代に親しまれ、懐メロ番組に欠かせない存在であった。1995年(平成7年)、第37回日本レコード大賞功労賞を受賞。1996年(平成8年)、交通事故の治療で行った輸血が原因でC型肝炎との診断を受け、闘病を密かに続けることとなる。その後、肝臓癌を発病。芸能活動の傍ら治療を続けたが、2005年(平成17年)秋に症状が悪化。2006年(平成18年)2月収録のNHKデジタル衛星ハイビジョン『シブヤらいぶ館・演歌一本勝負』において、肝臓癌で闘病中であることを告白。その直後の3月下旬に入院。4月末に容態が急変。5月7日午後6時7分、肝臓癌のため埼玉県越谷市の病院で死去。享年69。


松山恵子(1937~2006)_f0368298_13302747.jpg

松山恵子(1937~2006)_f0368298_13302495.jpg

松山恵子(1937~2006)_f0368298_13302559.jpg

「お恵ちゃん」の愛称で親しまれた松山恵子。トレードマークの派手な落下傘ドレスと片手に白いハンカチを持って登場し、ファンからは熱烈な「お恵ちゃん」コールと紙テープが投げ込まれるというその光景は、まさに異空間とも思えるほどの凄まじいものであった。明るくてサービス精神溢れるお恵ちゃんであったが、事故で父を失い、また自身も交通事故で再起不能にまで陥って必死のリハビリ、兄は失踪、最愛の母の死によって鬱に陥るなど、私生活は波乱に満ちていた。それでも笑顔を絶やさず、ファンのために歌い、そしてファンもお恵ちゃんを支え続けた。その関係性は、アイドルを支える現代のオタクたち、すなわち「推し活」に通じるものがあるのではないか。彼女が亡くなった今、懐メロ番組は大変寂しいものとなってしまった。松山恵子の墓は、千葉県松戸市の八柱霊園にある。墓には「岡崎家」とあり、背面に墓誌が、右横に松山恵子の生涯と代表曲のタイトルと歌詞、そして歌う生前の姿が刻まれたファンからの顕彰碑が建つ。戒名は「演妙院釋尼慈恵大姉」。

by oku-taka | 2023-05-28 13:38 | 音楽家 | Comments(0)