人気ブログランキング | 話題のタグを見る

十代目・坂東三津五郎(1956~2015)

十代目・坂東三津五郎(1956~2015)_f0368298_04402633.jpg


十代目・坂東 三津五郎(ばんどう みつごろう)

歌舞伎俳優
1956年(昭和31年)~2015年(平成27年 )

1956年(昭和31年)、九代目坂東三津五郎の長男として東京都中央区に生まれる。本名は、守田 寿(もりた ひさし)。守田家では七代目三津五郎以来の男児だったので、喜んだ曾祖父・七代目三津五郎により、1957年(昭和32年)3月の明治座『傀儡師』の唐子で七代目に抱かれて初お目見得となる。1962年(昭和37年)9月、歌舞伎座『黎明鞍馬山』の牛若丸で初舞台。五代目坂東八十助を襲名する。同時に、祖父が八代目坂東三津五郎を、父が七代目坂東蓑助を襲名し、大和屋三代の襲名披露興行となった。研究熱心かつ努力家で、こつこつと積み上げられた芸で多くの人々を魅了。芸域は幅広く、『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)の新三、『新皿屋舗月雨暈』の魚屋宗五郎、『雪暮夜入谷畦道』の三千歳直侍といった世話物の役を始め、『ひらかな盛衰記』の樋口次郎、『絵本太功記』の武智光秀、『熊谷陣屋』の熊谷直実、『伽羅先代萩』の仁木弾正などの時代物、『勧進帳』の弁慶といった荒事などもこなした。また、踊りの名手として知られ、特に『六歌仙容彩』の喜撰法師を好んで演じ、基本に忠実ながらも味わい深い芸を見せた。1978年(昭和53年)、NHK朝の連続テレビ小説『おていちゃん』に主人公の兄役で出演。番組の最高視聴率は50%を超え、一躍その名が知られるようになる。1983年(昭和58年)、宝塚歌劇団雪組・花組で男役準トップスターを務めた寿ひずると結婚。女児2人と後の二代目坂東巳之助を授かるが、三津五郎の実家の家族らと寿との結婚以来の諸々の確執や、近藤サトほか三津五郎に複数の女性関係があるとの噂などが取沙汰されたことで、1997年(平成9年)に離婚。3人の子の親権は三津五郎が、養育権は寿がもったエピソードもあるが、これは寿が離婚で子の姓が変わるといじめなど不利益にならないかという心配や、寿が若くして実父と死別(宝塚在団中)した経験から子を手放したくないことを三津五郎に申し入れていたためとされる。寿と離婚成立後、1998年(平成10年)に近藤サトと再婚したが、2000年(平成12年)に離婚した。1988年(昭和63年)、芸術選奨新人賞を受賞。1992年(平成4年)、菊田一夫演劇賞優秀賞を受賞。1999年(平成11年)、父の死に伴い、日本舞踊の坂東流家元を継承。2001年(平成13年)1月、 歌舞伎座『寿曽我対面』の曾我五郎、『六歌仙容彩』「喜撰」の喜撰法師で十代目坂東三津五郎を襲名。2006年(平成18年)、『道元の月』の演技などで日本芸術院賞を受賞。2007年(平成19年)、第7回バッカーズ演劇奨励賞を受賞。2009年(平成21年)、紫綬褒章を受章。同年、第30回松尾芸能賞大賞を受賞。2013年(平成25年)、第54回毎日芸術賞を受賞。7月、健康診断を受けた際に腫瘍が見つかり、8月末に都内の病院に入院。悪性の膵臓癌が発覚した。9月に摘出手術を受け、10月には会見を開いて膵臓癌を公表。療養を「天のくれた時間」と前向きにとらえ、読書などで穏やかな日々を過ごした。2014年(平成26年)4月に本格復帰。同年、『髪結新三』などの演技で第21回読売演劇大賞最優秀男優賞を受賞。しかし、9月に肺への転移が見つかり、12月上演予定だった一人芝居『芭蕉通夜舟』を降板。治療に専念していたが、2015年(平成27年)1月末、インフルエンザに感染。肺炎も併発したため、都内病院に緊急入院。以後は小康状態を保ち、自宅でテレビ収録を行っていたほどだったが、2月17日に容体が急変。2月21日午前2時3分、膵臓癌のため東京都内の病院で死去。享年59。没後、旭日小綬章を追贈された。


十代目・坂東三津五郎(1956~2015)_f0368298_04402559.jpg

時代物の重厚な役から世話物の人情味あふれる役まで、幅広い役柄を巧みに演じた十代目坂東三津五郎。面長で切れ長の一重瞼とスラっとした細身の姿は、まさしく天性の歌舞伎役者という感じであり、若い頃から比べられていた十八代目中村勘三郎より華があった。それが故に、平成中期に繰り広げた近藤サトとの不倫・略奪婚・二度目の離婚劇は見事なまでに泥沼で、ワイドショーの格好の餌食となってしまった。どうしてもこの印象が強い人であったが、歌舞伎のみならずテレビドラマや映画でも活躍し、『古畑任三郎』での冷静に努めようとする米沢八段役の抑えた演技は大変良かった。NHK大河ドラマ『功名が辻』での明智光秀役も存在感があり、「敵は、本能寺にあり!」のセリフ回しは実に見事であった。歌舞伎界を背負って立つ存在として、盟友の勘三郎と切磋琢磨し、舞踊『棒しばり』や『団子売』はそうした二人の磨き上げた芸の到達点という気がしていた。それだけに、勘三郎が57歳で逝き、「肉体の芸術ってつらいね。全てが消えたよう。本当に寂しいよ、つらいよ」と弔辞を述べた三津五郎も、後を追うかのように逝ってしまったのが何ともやるせない。十代目坂東三津五郎の墓は、東京都府中市の多磨霊園にある。墓には「守田家累代之墓」とあり、墓誌はない。戒名は「香芸院爽進日寿居士」。

by oku-taka | 2023-04-23 04:42 | 俳優・女優 | Comments(0)